トランスポーター2・その1

 トランスポーター2を鑑賞。

 面白いといえば面白いんだが、アメニティ(快適さ)は低下。残尿感のあるスッキリしない作品となった。中年だから残尿感はつきものなのかなあ? オシッコ切れも悪くなったし。


 ●アメニティは低下

 特別な面白さや新しさはないが、ひたすら居心地がよかった前作。中年男性にとってアメニティ充実の、温泉宿のような作品であった。

 しかし、それは低下。

 微妙に居心地が悪いのである。

 まずカーアクション。これは単純に前作よりもパワーダウンしたと感じた。要所でCGが挿入され、しかもCGとバレるので興ざめしてしまうのだ。CGならではの派手さもない。

 なんだか、がっかりである。

 バトルアクションの質も低下したのでは? テンポよく編集されたといえば聞こえはいいが、ジェイソン・ステイサムがどのように戦っているのかを空間的に把握できない。なんだかごまかされてるような気分になるのだ。

 しかもボスキャラと女殺し屋とのバトルがあっさりしていて、満足感が低いのである。たぶんアクションのできない役者と女優なんだろうが、落胆させられた。もっとド派手に戦えよ。


 ●ミスキャストなのでは?

 色々とミスキャストなのではないかとも感じた。

 主演のジェイソン・ステイサムにギャラのほとんどをとられ、他の役者にまわす金がないのでは? 低予算ぽい90分映画だし。

 ボスキャラのテロリストと、女殺し屋に悪としての魅力がないのである。しかも女優たちがフェロモン不足。子役の少年も単なる子供で、感情移入に必要なけなげさが無い。

 どうにかできなかったのか?

トランスポーター(2)

 ●物語展開までも、ザ・昭和スタイル。もはや王道。

 昭和スタイルの主人公を描くには、昭和スタイルの物語しかあるまい。実際にそのように展開する。監督のリュック・ベンソンは、昭和生まれの日本人ではないのだが……。

 ワケありそうな荷物運びの依頼を受けるのは、いつものことだ。さっさと片づけて、普段の孤独に快適な生活に戻るつもりだった。

 ところがどうにも不審なので、己のルールを破って運ぶ荷物の内容を確認。中身はかわい子ちゃん(魅力的な若女子を、昭和男性はそう呼ぶ習慣があった)。

 どうも誘拐の片棒をかつがされてるらしいが、そんなのは俺の知ったこっちゃない。いつも通りに仕事するだけだ。この女が殺されようが、犯されようが、それも知ったこっちゃない。

 しかし、無駄に苦しませるのはアレだから、飲み食いくらいはさせてやるか。ちと後ろめたくもあるし。アラサーの東洋系女性は魅力的で、どうやら俺に惚れてるらしい。

 だが、それも知ったこっちゃない。

 とりあえず女子を運び終えてひと仕事終えたら、車が大爆発。依頼者の野郎、俺を殺そうとしやがった。愛車はスクラップだ。なめたことしやがるタコは、制裁するしかない。

 アジトに乗り込んでカンフーアクションで腐った奴らを全員ボコボコにしてやったが、どうもスッキリしない。壊れた愛車は戻ってこねえし。

 全くついてねえ。それもこれも、運ぶ荷物を確認するという、己のルールを破ったせいだ。二度とこうゆうマネはしないと心に誓って帰宅した。孤独で快適な生活に戻るつもりだった。

 なのになぜか先ほどのアラサー女子が一緒だ。東洋系だし、ラーメンでも食わせて追い出すつもりだったが、彼女は欲情。生理前のムラムラ期だったようだ。

 チッ、嫌なシーズンの到来だぜ。

 孤独で快適な一人暮らしを壊されたくはなかったが、彼女が積極的すぎたので、つい誘惑に負けて挿入。やっちゃうと、つい情にほだされてしまうのが俺の悪い癖だ。だからセックスはしないようにしているのだが、ついついその戒めを破ってしまう。

 ワケありなアラサー女子の事情に巻き込まれ、映画の残り時間の半分を費やして、ワルどもをボコボコにするハメになった。

 ……って、書いてくあいだに、つい主人公のジェイソン・ステイサムになりきってしまい、文体が一人称になってしまった。居心地いい作品ってそうなんだよなあ。つい主人公と一体化してしまう。

 何を言いたかったというと、自ら選んだぼっち暮らしなんだが、それでも若女子(といってもアラサーだが)にセックスを求められ、ついつい食べてしまう据え膳。

 ムカつく野郎はボコボコにして、最後は女子の依頼を断り切れずに大暴れしたが、セックスに目がくらむようなバカではなく、かわいそうな子供たちを助けるためでした……的な言い訳まで用意されていて、ある種の中年男性にとって心地いい物語展開なのだ。

 いい車に乗りたい。お気に入りのスーツも着たい。ムカつく野郎はボコりたいし、若い女に目がくらむバカにはなりたくない。年相応にアラサーちゃんとハメる賢明な男でもありたい。一発セックスしただけで、女の言いなりになるバカではないアピールもしたい。子供たちのためなら、いつでも一肌ぬげる男でもありたい。

 そんな欲望を過不足なく満たしてくれるのである。

 特別な何かや、新しさはないが、それでもやはり、居心地はいいのである。

トランスポーター(1)

 トランスポーターを鑑賞。

 特別に優れたものや、新しいものはないが、男にとって心地いいものしかない映画。昭和どころか平成も終わってしまう時代に、この種の懐かしい作品がつくり続けられるのは、中年男性にとってありがたいことである。

 黒字は出たものの、続編をつくるほどのヒットではなかったそうだ。だがDVDがバカ売れし、シリーズ化が決定。中年男性がついハマってしまい、DVDに手が伸びてしまったのだろう。

 なんだかわかるのである。


 ●昭和テイストな懐かしい感じの主人公造形

 面倒な組織に所属することなく、一匹狼スタイルで運び屋をやる男。孤独を愛しているのだ。業界内での評価は高く、嫌いな仕事は断れる立場。過去に軍人経験があり、喧嘩は強い。

 いい車(ベンツ? BMW?)に乗り、ドライビングテクニックは抜群。自分に最もよく似合うデザインの、高そうなスーツを愛用。

 仕事とプライベートに自分のルールがあり、それに従って生きている。その方がストイックだが、快適でもあるからだ。

 今風のイケメンではないが、仕事上で関わることになった女性には何故か惚れられてしまう。だが己のルールに反するので、セックスに誘われても断るようにしている。

 ……って、なんという古風なキャラクター。ザ・昭和のセンス。テレビ東京の深夜枠。なんだか、そんな感じである。

 ぶっちゃけ、こんなキャラクター設定を企画会議でプレゼンされても、古すぎるからとボツにするしかない。

 ボツにするしかないんだが、とはいえ自分以外の誰かが映画化し、それを鑑賞してしまうと、やっぱり見ていて心地いいのである。特別なものはないんだが、いいものはいいんだよなあ。

 叶精作の新作劇画の読後感にも似ている。聞いたことない無名の原作者の名前がクレジットされているが、小池一夫が別のペンネームとしか思えないような安定したつくりのやつだ。

 これもまた、新しいものは何もないんだが、ひたすら居心地よく退屈しない。アメニティの高いエンタメ作品としか、形容のしないものなのだ。

 そして私はそんな作品もまた好きなのである。

隠し剣・鬼の爪

 隠し剣・鬼の爪を鑑賞。

 なんとなく藤沢周平の物語づくりとキャラづくりのパターンみたいなものが見えてきて、勉強になったりもしてきた。自作の参考にしたいところである。


 ●永瀬正敏の演技について

 海坂藩とゆうか、山形県民の朴訥さや純朴さを、MAXで演じきったのはぶっちぎりで永瀬正敏。とぼけた味わいを出しすぎかもしれないとも思ったが、いやいや、藤沢作品のこの部分を原作以上に表現したのはさすがでしょう。

 剣劇シーンの動きもキレがよく、アクションシーンで鍛えた真田広之でもないのに、ここまで遜色ないとはさすがとゆうか。鬼の爪が閃くシーンも、無駄のない動きでサクッと殺す凄みを、凄みを抑えつつさらりと普通に演じててさすがと感じた。

 もっと時代劇で見たいと感じた。


 ●松たか子の演技について

 時代劇なのに松たか子が現代人にしか見えないと不評だ。しかし、こんなもんじゃないか? 松たか子の役は竹内結子木村佳乃が演じても、同じものになるのではないかと私は感じている。3人とも過不足ない感じが似てるとゆうか……。


 ●隠し剣・鬼の爪のシーンについて

 私は重要なシーンはじっくり長く見たい派である。

 だから永瀬正敏が鬼の爪を練習するシーンは、もっと長い時間をとって欲しかった。永瀬の殺意や必死感がじわじわと高まり、頂点に達するとこが見たかったのである。

 実際に殺すシーンも同様。

 必殺仕事人なら、テーマソングが鳴り始め、これから殺しますよと盛り上げながら、殺意が高まる永瀬が見栄をきりながら、しかしサクっと殺しちゃうとこだ。

 そうゆうところを、ついつい見たくなってしまうのである。

 しかし、それをやってしまうと、安物っぽくなるという批判は、あえて引き受けたい。

 確かにとぼけた味わいで主人公を演じた永瀬正敏が、暗殺するというのに力むことなく、あっさりと殺すからこそ凄みがあるのだというのは、よくわかる。

 日常生活のなかで、無駄な動きや力みや感情もなく、手ぎわよくさくっと暗殺。だからこそ、やばい。

 御説ごもっとも。ザ・正論。反論の余地などない。

 しかしなあ……。あまりにもあっさりしすぎて、薄味にも思えてしまうのはしかたないじゃんな。長い時間をとって、ゆっくりたっぷり盛り上げつつ、劇的に殺すシーンをついつい見たくもなってしまうのである。

 批判する意図はないので、許してくれい。


 ●吹越満について

 たそがれ清兵衛のとこで書き忘れたので、ここで書いときたい。

 いいヤツなんだが頼りない友人役を、吹越満がリアル感たっぷりに演じた。そうゆう人にしか見えない。吹越がもともとからもってる、カッコよさというのを完全に消し去ってる。

 すごいと感じた。

 冷たい熱帯魚では、吹越は似た役を演じた。いいヤツで知的インテリなんだが、頼りないというキャラだ。

 しかしその時は隠しても隠しきれないカッコよさがにじみ出ており、カッコよさは出しといたほうがいい役と判断した吹越がそう演じているのである。

 イケメン感を出したり引っ込めたりできる役者って、吹越満くらいじゃないかと思った。

 普通はイケメン感をだそうとしても、本人がカッコよくないから無理だったりする。またイケメン感を隠そうとしても、カッコいいからできなかったりもする。

 ただ吹越満はそうでないのである。

たそがれ清兵衛

 たそがれ清兵衛を鑑賞。

 尊敬してやまない藤沢周平が原作。もちろん読んでいるが、内容は忘れてしまった。この記憶力のなさが、私のダメなとこ。とほほ。


 ●自暴自棄になった田中泯の演技が光る

 自暴自棄になった田中泯の演技が光る。清兵衛が脇差しか持ってないと知るや、自分が弱いと愚弄されたと怒る侍を薄気味悪い感じで演じている。田中でなければ、演じられなかったろう。

 太刀のない清兵衛なら殺して逃走できると希望が生まれたようにも見えたが、それは私の気のせいだろうか? うがちすぎか? ちょっとわからない。


 ●宮沢りえはハマり役ではないか?

 恋愛では過去に色々あった宮沢りえ。そんな彼女が不幸な結婚をさせられた役を演じるのだから、ハマらぬわけがない。演技を超えた味わいが生まれたと思う。

 庄内弁で喋るセリフは、正確な方言に気をとられ、感情がこもらない演技になりがち。しかし宮沢はしっかりと感情をこめており、すばらしかった、真田広之も同様。

 ちなみに他作品で某美人女優が侍の妻を演じたが、侍言葉をしゃべるのにいっぱいいっぱいになっており、感情をこめるとこまでできてなかったのに愕然とさせられた。

 美人なだけがとりえの大根役者だが、まして侍言葉での演技なんて最初から無理だったのだろう。呆れたね。


 ●不評なナレーションについて

 ナレーションが不評だ。確かに私も不要と感じた。ラストも蛇足だ。

 しかし……。

 幕末から明治に時代が移る、長い時間軸での物語なわけだ。その時間軸を描くためには、あのナレーションは必要だったのではないか。

 おそらくだが、大量の死傷者をだすのがわかってるのに、幕末に戦争をやってしまった庄内の海坂藩。戦死した清兵衛に、太平洋戦争を経験した日本を、うっすらとかぶせてるように私には見えるのである。

 そして清兵衛を含めた戦死者たちを弔うために、どうしてもそこは監督が言及したかったところではないのか? しなくていい戦争をやってしまう武家社会を嫌さを、日本社会の嫌さとして描きたかったのではないか?

 これは隠し剣・鬼の爪でも描かれるとこである。主人公は武家社会に嫌気がさし、武士を辞めて新天地の江戸を目指すのだ。山田洋二監督にとっては、とても重要なことだったのだろう。

 そのへんの監督の心境を読み取る必要はあると感じた。

 本当はディレクターズカットと、完全版に分けるべきかもな。


 ●貧しい経済状況の中で、美しく暮らす日本人を描いた傑作

 時代劇の何が良いって、失われた美しい日本の風景が描かれることだ。どれもフォトジェニックで、実に絵になる。ファンタジー映画以上の、異世界の美しさがあるのだ。

 しかもそこに生きるのは、貧乏な中でも美しい心をもち、美しく暮らす日本人なのである。ぐっとこないはずがない。貧乏なのに礼儀正しく勉強熱心な2人の娘。食べ物を大切にし、漬物で茶碗の内側をぬぐって食べて食事を終わらせる清兵衛。

 現在の我々にはできないことを、ごく普通にやってみせる彼らに胸アツになる自分をとめることはできないよな。


 ●藤沢周平の人生が投影された、自伝的や私小説的な作品

 映画を見てて切なくなったのは、原作者の藤沢周平の実人生が反映された作品と感じたからだ。業界紙の編集長をやってた藤沢は、金銭的には恵まれなかった。

 娘さんを育てながら生活し、後に再婚。再婚した女性との間に子供はつくらなかった。

 この実人生が小説や映画にも反映されているのだ。

 宮沢りえが清兵衛(真田広之な)の家に来ると、家がぱっと明るくなったと娘がナレーションで語るシーンがある。ここは再婚した妻が家に来て、ぱっと明るくなった実人生をかぶせているのである。そして藤沢本人の心も明るくなったろう。

 また再婚相手だった妻は、自分が産んだ子供ではないのに、愛情たっぷりに育てた。それらへの感謝と、妻への愛情告白でもあるのが本作なのだ。もちろん大切な娘への手紙でもある。

 藤沢周平の実人生が、ナレーションで語る娘という手法でよって描かれているわけである。

 ナレーションは不評だし、私も不要だと思う。大事なとこなので、何度でも強調したい。

 しかしながら藤沢の作品意図を山田洋二監督がくみ取った場合、時間軸で描く意図と、藤沢の実人生を原作同様に映画で描こうとした場合、ナレーションを入れることに選択の余地はなかったように思えるのだ。

 入れるしかないのである。

 そうゆう目線も鑑賞する側に必要なのだと、これまた大事なとこなので何度でも強調したい。

パーマネント野ばら

 パーマネント野ばらを鑑賞。

 小池栄子夏木マリの個性的な演技が光るも、シナリオは工夫の余地ありと感じた。田舎の漁村に生きる女性たちを描いた作品で、漁村に生きる人々をある意味でリアルに描く。

 母と娘と、その子供の三代にわかる大河作品とも読める。

 ただちょっと踏み込み不足かなあ……。結末で衝撃の事実が明かされるのだが、その先を見たくなるのに描かれない。フックで釣っといて放置プレイされるわけで、欲求不満に陥ってしまう。

 素敵な作品だが、残尿感がある。

 小池栄子夏木マリの個性的な演技が光る。

 ギャグタッチではなく、リアルタッチで描くべきだったようにも思えるが、どうなのだろうか?

10年は人を変える

 久しぶりに会った知人がいた。顔つきが変わっていた。こんな無表情な男だったかなあ?と首をかしげた。人格まで変わり、嫌な人物になっている。10年は人を変えるのだ。

 違和感に戸惑いながら、懐かしいねと会話を続けた。旧交を温めようと思ったのだ。しばらくすると別室に呼ばれ、意見された。

 明らかにスジ違いだったが、反論もしないで謝罪した。面倒くさいことに、なりたくない。こんな時は逃げるに限る。

 さすがに不快になって、距離を置いて観察した。バツイチの彼には再婚した妻がいる。彼女まで10年前と様子が変わっている。

 貫禄がついたのさ、と別の友人から耳打ちされた。確かに太ったし、社会的なポジションも上がったのだろう。貫禄的な何かもついてしまう。10年前は正社員になれたと喜んでいたから、会社内で出世したのかもしれない。

 でも、それだけじゃなさそうだ。

 表情に妙な輝きがあり、違和感があった。10年ぶりの彼と同様だ。宗教やマルチにハマり、しかも上位にいる人間の感じとゆうか。

 あの夫婦、どうなっちゃったの?

 推理しはじめると、噂が耳に入ってくるようになった。妻は数年前から、SM女王様のバイトをはじめたそうだ。

 私は頭を抱えた。風俗仕事は特殊なものだ。女性の人格を激しく変える。風俗に妙に適応しすぎるあまり、半年でがらりと雰囲気と顔つきまで変わってしまう女性はいる(むろん変わらない女性もいる)。彼女もその一人だ。

 私は呆れてしまった。10年かけて良い方に変わるならともかく、悪い方に変わってどうすんだよ。仕事でM男に偉そうな態度をとるうちに、プライベートでも偉そうな態度がにじみ出るようになってしまっている。

 旦那とSMプレイをするようになり、SMに目覚めた。強欲なので金も欲しい。収入アップのためにSMバイトをするようになり、そっちの稼ぎは税金も納めないので金回りはよくなる。

 高年収で威張れる立場だから、勘違いするのはしかたない。充実した人生でもあるから、妙にキラキラしてしまう。

 しかしSM女王さまだ。

 成功したIT社長や大臣でも、勘違いしたらバカにされるのに、風俗産業人が調子こいてどうする? アホやぞ。

 そういや、M男によくいるタイプの男だよなあ。無表情で、昆虫のような顔つきに変わった彼を観察しながら、過去に遭遇したM男を思い出した。

 無表情で空気は読めない。しかし力関係には敏感。損得勘定はできるのだ。なのに妙なとこで態度がデカかったり、妙なとこで媚びたりする。そのタイミングが普通の人物とズレているのである。

 無料のM男プレイができなくなると困るので、完全に妻や恋人の言いなり。周囲と衝突する理由を掘り下げると、「妻が怒っているから」だったりする。

 むろんM男すべてがそうではない。

 ほとんどは私よりも常識人だし、社会的なポジションや年収がはるかに私よりも高いのがほとんどである。

 ただ、一部に特徴的にみられる現象でもあるのだ。

 SMプレイのできる妻と知りあい、変態プレイのできない元嫁と離婚することばかり考え始めたのかなあ……。

 こんな時の私は、推理と妄想をあさっての方向に掘り下げてしまう。面白いからいいじゃないかと思うのだ。彼が実際にそうかどうかは別にして、そうゆうことはよくあるわけで。

 当たってるかどうかはわからないけど、よくある話。

 そんなところに着地させたくなってしまう。

 10年かけて彼が変わったというよりも、本来の自分の姿を見つけただけなのかもなあ……。なんて、自分の見識のなさを反省してみたりもする。

 そういえば当時は不審に思わなかったけど、10年前から表情は少なかったような。私が気づかなかっただけで、昔からそうだったんだろうなあ。

 10年も時間が過ぎると、人間は何らかの形で何かにたどり着いてしまう。周囲や本人が、そこじゃないでしょと納得できなくても、実は最もふさわしい場所がそこなのだ。

 なんだか人生の答え合わせが完了したような、不思議な気分になってしまう。