たそがれ清兵衛
たそがれ清兵衛を鑑賞。
尊敬してやまない藤沢周平が原作。もちろん読んでいるが、内容は忘れてしまった。この記憶力のなさが、私のダメなとこ。とほほ。
●自暴自棄になった田中泯の演技が光る
自暴自棄になった田中泯の演技が光る。清兵衛が脇差しか持ってないと知るや、自分が弱いと愚弄されたと怒る侍を薄気味悪い感じで演じている。田中でなければ、演じられなかったろう。
太刀のない清兵衛なら殺して逃走できると希望が生まれたようにも見えたが、それは私の気のせいだろうか? うがちすぎか? ちょっとわからない。
●宮沢りえはハマり役ではないか?
恋愛では過去に色々あった宮沢りえ。そんな彼女が不幸な結婚をさせられた役を演じるのだから、ハマらぬわけがない。演技を超えた味わいが生まれたと思う。
庄内弁で喋るセリフは、正確な方言に気をとられ、感情がこもらない演技になりがち。しかし宮沢はしっかりと感情をこめており、すばらしかった、真田広之も同様。
ちなみに他作品で某美人女優が侍の妻を演じたが、侍言葉をしゃべるのにいっぱいいっぱいになっており、感情をこめるとこまでできてなかったのに愕然とさせられた。
美人なだけがとりえの大根役者だが、まして侍言葉での演技なんて最初から無理だったのだろう。呆れたね。
●不評なナレーションについて
ナレーションが不評だ。確かに私も不要と感じた。ラストも蛇足だ。
しかし……。
幕末から明治に時代が移る、長い時間軸での物語なわけだ。その時間軸を描くためには、あのナレーションは必要だったのではないか。
おそらくだが、大量の死傷者をだすのがわかってるのに、幕末に戦争をやってしまった庄内の海坂藩。戦死した清兵衛に、太平洋戦争を経験した日本を、うっすらとかぶせてるように私には見えるのである。
そして清兵衛を含めた戦死者たちを弔うために、どうしてもそこは監督が言及したかったところではないのか? しなくていい戦争をやってしまう武家社会を嫌さを、日本社会の嫌さとして描きたかったのではないか?
これは隠し剣・鬼の爪でも描かれるとこである。主人公は武家社会に嫌気がさし、武士を辞めて新天地の江戸を目指すのだ。山田洋二監督にとっては、とても重要なことだったのだろう。
そのへんの監督の心境を読み取る必要はあると感じた。
本当はディレクターズカットと、完全版に分けるべきかもな。
●貧しい経済状況の中で、美しく暮らす日本人を描いた傑作
時代劇の何が良いって、失われた美しい日本の風景が描かれることだ。どれもフォトジェニックで、実に絵になる。ファンタジー映画以上の、異世界の美しさがあるのだ。
しかもそこに生きるのは、貧乏な中でも美しい心をもち、美しく暮らす日本人なのである。ぐっとこないはずがない。貧乏なのに礼儀正しく勉強熱心な2人の娘。食べ物を大切にし、漬物で茶碗の内側をぬぐって食べて食事を終わらせる清兵衛。
現在の我々にはできないことを、ごく普通にやってみせる彼らに胸アツになる自分をとめることはできないよな。
映画を見てて切なくなったのは、原作者の藤沢周平の実人生が反映された作品と感じたからだ。業界紙の編集長をやってた藤沢は、金銭的には恵まれなかった。
娘さんを育てながら生活し、後に再婚。再婚した女性との間に子供はつくらなかった。
この実人生が小説や映画にも反映されているのだ。
宮沢りえが清兵衛(真田広之な)の家に来ると、家がぱっと明るくなったと娘がナレーションで語るシーンがある。ここは再婚した妻が家に来て、ぱっと明るくなった実人生をかぶせているのである。そして藤沢本人の心も明るくなったろう。
また再婚相手だった妻は、自分が産んだ子供ではないのに、愛情たっぷりに育てた。それらへの感謝と、妻への愛情告白でもあるのが本作なのだ。もちろん大切な娘への手紙でもある。
藤沢周平の実人生が、ナレーションで語る娘という手法でよって描かれているわけである。
ナレーションは不評だし、私も不要だと思う。大事なとこなので、何度でも強調したい。
しかしながら藤沢の作品意図を山田洋二監督がくみ取った場合、時間軸で描く意図と、藤沢の実人生を原作同様に映画で描こうとした場合、ナレーションを入れることに選択の余地はなかったように思えるのだ。
入れるしかないのである。
そうゆう目線も鑑賞する側に必要なのだと、これまた大事なとこなので何度でも強調したい。
10年は人を変える
久しぶりに会った知人がいた。顔つきが変わっていた。こんな無表情な男だったかなあ?と首をかしげた。人格まで変わり、嫌な人物になっている。10年は人を変えるのだ。
違和感に戸惑いながら、懐かしいねと会話を続けた。旧交を温めようと思ったのだ。しばらくすると別室に呼ばれ、意見された。
明らかにスジ違いだったが、反論もしないで謝罪した。面倒くさいことに、なりたくない。こんな時は逃げるに限る。
さすがに不快になって、距離を置いて観察した。バツイチの彼には再婚した妻がいる。彼女まで10年前と様子が変わっている。
貫禄がついたのさ、と別の友人から耳打ちされた。確かに太ったし、社会的なポジションも上がったのだろう。貫禄的な何かもついてしまう。10年前は正社員になれたと喜んでいたから、会社内で出世したのかもしれない。
でも、それだけじゃなさそうだ。
表情に妙な輝きがあり、違和感があった。10年ぶりの彼と同様だ。宗教やマルチにハマり、しかも上位にいる人間の感じとゆうか。
あの夫婦、どうなっちゃったの?
推理しはじめると、噂が耳に入ってくるようになった。妻は数年前から、SM女王様のバイトをはじめたそうだ。
私は頭を抱えた。風俗仕事は特殊なものだ。女性の人格を激しく変える。風俗に妙に適応しすぎるあまり、半年でがらりと雰囲気と顔つきまで変わってしまう女性はいる(むろん変わらない女性もいる)。彼女もその一人だ。
私は呆れてしまった。10年かけて良い方に変わるならともかく、悪い方に変わってどうすんだよ。仕事でM男に偉そうな態度をとるうちに、プライベートでも偉そうな態度がにじみ出るようになってしまっている。
旦那とSMプレイをするようになり、SMに目覚めた。強欲なので金も欲しい。収入アップのためにSMバイトをするようになり、そっちの稼ぎは税金も納めないので金回りはよくなる。
高年収で威張れる立場だから、勘違いするのはしかたない。充実した人生でもあるから、妙にキラキラしてしまう。
しかしSM女王さまだ。
成功したIT社長や大臣でも、勘違いしたらバカにされるのに、風俗産業人が調子こいてどうする? アホやぞ。
そういや、M男によくいるタイプの男だよなあ。無表情で、昆虫のような顔つきに変わった彼を観察しながら、過去に遭遇したM男を思い出した。
無表情で空気は読めない。しかし力関係には敏感。損得勘定はできるのだ。なのに妙なとこで態度がデカかったり、妙なとこで媚びたりする。そのタイミングが普通の人物とズレているのである。
無料のM男プレイができなくなると困るので、完全に妻や恋人の言いなり。周囲と衝突する理由を掘り下げると、「妻が怒っているから」だったりする。
むろんM男すべてがそうではない。
ほとんどは私よりも常識人だし、社会的なポジションや年収がはるかに私よりも高いのがほとんどである。
ただ、一部に特徴的にみられる現象でもあるのだ。
SMプレイのできる妻と知りあい、変態プレイのできない元嫁と離婚することばかり考え始めたのかなあ……。
こんな時の私は、推理と妄想をあさっての方向に掘り下げてしまう。面白いからいいじゃないかと思うのだ。彼が実際にそうかどうかは別にして、そうゆうことはよくあるわけで。
当たってるかどうかはわからないけど、よくある話。
そんなところに着地させたくなってしまう。
10年かけて彼が変わったというよりも、本来の自分の姿を見つけただけなのかもなあ……。なんて、自分の見識のなさを反省してみたりもする。
そういえば当時は不審に思わなかったけど、10年前から表情は少なかったような。私が気づかなかっただけで、昔からそうだったんだろうなあ。
10年も時間が過ぎると、人間は何らかの形で何かにたどり着いてしまう。周囲や本人が、そこじゃないでしょと納得できなくても、実は最もふさわしい場所がそこなのだ。
なんだか人生の答え合わせが完了したような、不思議な気分になってしまう。
鬼龍院花子の生涯
鬼龍院花子の生涯を鑑賞。
子供の頃にテレビで何度も見たことあるが、女優さんのヌードと、仲代達也の狂った演技が最大のお目当てであった。仲代のキレっぷりが子供心に大好きで、よくモノマネしたものだ。変わった子供と思われてたのは、不本意だったが……。
大人になってから鑑賞すると、仲代達也がマジで狂った男優であることに気づかされる。溶けた氷のように透明な濡れた目つきで演じるため、ヤバい薬をキメた人にしか見えないのだ。
こんなヤク中みたいな俳優だったっけかなあ……。
トーク番組などで見る仲代達也は、インテリな人格者に見えた。しかし狂気を演じるとなると、一転して薬物中毒なみに変貌してしまうあたりに、役者としての狂気を感じてしまう。
ヤクザ映画系の演技をする岩下志麻などの面々のヤクザ感の演技と、仲代達也の演技は全く別もの。異質である。
仲代達也は大藪晴彦の伊達邦彦を演じたこともあり、意外な配役だと違和感に首をかしげた。やっぱり松田優作のイメージが強い役だからである。やっぱり仲代よりも、松田ではないかと、ついつい考えてしまう。
しかし伊達邦彦は確か早稲田卒のインテリでもあるから、仲代達也のインテリ感は役になじむのである。そしてそれは松田優作にはない味わいだ。
そして平気で人を殺せる伊達邦彦の人間性を、「イッっちゃってるヤバい人間の狂気性」と解釈した場合、仲代のヤク中みたいな演技は正解ではあるのだ。
狂気にもいろんな種類があって、松田優作的な狂気もあれば、仲代達也的な狂気もある。どちらがより優れているかどうかはないので、役にあってるかどうかの違いなのではないか。
あと仲代が演じる役は文盲で文字が読めない。だから手紙を部下に読ませるのだが、無学な自分を恥じてもいる役なので、手紙を音読するように部下に命じる時に、一瞬の間がある。
こうゆう細かいとこまでつくりこむのはさすがなんだが、理解してる観客はいないだろうなあ……と思った。
くちびるに歌を
くちびるに歌を、を鑑賞。
音楽教師が赴任。合唱部を率いる……って、名作の香りしかしないですね! エーデルワイスだったけ? 忘れたが、そんな名作映画もあったよな。
●新垣由衣の演技のメジャー感。テレビ地上波がよく似合う
ぶっちゃけ制作サイドとしては、合唱部の中学生を演じる子役たちを、生き生きと描きたいだけなんだと思う。しかし演技力はあるけど、無名の子役たちを主人公にしたのでは客が入らん。
だからテレビ地上波で高視聴率をとる、新垣由衣を主演にして客を入れたいという思惑はあると思うのだ。実際にガッキーは、メジャー感のある演技をしている。
映画の格がグッと上がった。
●子役の演技がやばすぎる
自閉症スペクトラムの兄の面倒をみることに忙殺される役を演じる、下田翔太がやばすぎる。けなげな姿に中高年男性の私のハートはわしづかみ。しかも歌う時のたたずまいとゆうか……。
恒松百合もいい。
●物語中盤から感動させまくる
邦画の感動作品のつくりは、物語中盤からひたすら感動させまくるのが定番。本作も物語中盤から、ひたすら泣かせまくる。勉強になる作品だった。
●長崎の港町で生きる人々が、生き生きと描かれる。
真夏の方程式を鑑賞した時にも思ったのだが、田舎町を舞台にした映画は田舎に生きる人々が生き生きと描かれると、名作感がぐっと高まる。
また田舎の人々が生き生きとしてるからこそ、都会からやってきた主人公もまた輝けるわけで……。*1
*1:ここに脚注を書きます
重力ピエロ(1)
重力ピエロを鑑賞。
原作は伊坂幸太郎。やばいな。名手じゃないか。死神の精度で感動した経験がある。期待しながら映画を見始めた。
●渡部篤郎の演技、地上波放送できないのでは?
渡部篤郎の演技がやばい。一見、普通の人物に見える。しかし強姦を悪いこととは思っておらず、反省することもできないのだ。しかも強固な強姦理論で自己正当化していて、普通の論客程度では論破できない。
いわゆるサイコパスを演じてるわけだが、普通な感じと強姦が平気な感じの両方を、同時に演じなければならないので、非常に難しい役どころなのだ。
刑法39条という映画で堤真一が多重人格者を演じ、それも迫真の演技ですばらしかった。
しかし多重人格だから、「今は人殺しのできない人格ですよ」「そして今から人殺しのできる人格になりますよ」という境界線がはっきりと見えるのである。
つまり普通の人格と、殺人人格を別々に演じてるにすぎない。
同時に演じてるわけではないのだ。
今回の渡部篤郎の場合、普通の人格と強姦人格が混ざった状態で、同時に演じなければならない。よって多重人格よりも、難しいことを要求されているのである。
そんな難しい役なんだが、ここに落としてくださいねという、落としどころを間違えなかったと感じた。これが強姦が好きで好きでたまらない……というような、わかりやすい狂気で演じられたら、理解不能な恐怖はなかったろう。
とはいえ渡部が語る強姦理論、内容が内容すぎて、ちょっと地上波では放映できないのではないかと感じた。なんかこう、正論っちゃ正論なんで、余計にキツいとゆうか。
まほろ駅前狂騒曲
まほろ駅前狂騒曲を鑑賞。
●松田龍平だけにしかない魅力が薄く見える作品
バスの中で松田龍平が負傷し、思わず殉職してしまうのかと思ってドキドキしながら見てしまった。もちろん松田優作の太陽に吠えろでの殉職シーンを思い出したからである。龍平も殉職が似合う役者だよなあ。
松田は無表情なので何を考えてるかわからず、不気味だったりえたいのしれないところがあるのが特徴だ。だからバスの中で無表情でいた時に、こいつキレるのかな? キレたら何するかわかんないな? という期待と不安がこみあげてくるのだ。
このへんの感じが、松田龍平だけにしかない魅力ではないか。それがうっすらと見えたのは収穫であった。
しかし、あくまで、うっすらとである。
ただ本当はその魅力を出し切って欲しいのだが、役と脚本に恵まれないと、役者単独ではどうにもできんのも現実だ。今後に期待したい。
●映像としては一応、完結らしいが?
映像作品としては、一応は完結らしい。しかし物語としては完結していないので、続編は全然つくるべきではないか?