作家(小説家)はライターよりも格上なのか?(3)

 はあちゅうは小説家という職業も勘違いしている。

 「自分の中から出てくるものを書くのが作家(小説家)」という定義を彼女はしたが、作家だって取材はやる。ダメなライターよりもはるかに熱心にやる人たちは多い。歴史小説や時代小説になると、資料集めで1千万はかかるとまで言われるほどだ。

 とんでもない取材量が要求される小説というのは、存在するのだ。

 あと小説・マンガ・映画などでよく指摘されることだが、「過去に自分が体験したものの中から、組み合わせて作られるのが登場人物と物語。完全なオリジナルはない」という現実もある。

 はあちゅうが考えているような、「自分の中から出てくるもの」を書いている小説家は実はいないのではないだろうか? 私小説などはそれに該当するだろうが、しかし西村賢太の小説を読んでいても落語の技法が活きているのを確かに感じる。

 自分の中から出たものを書いてはいるが、単に自分が経験したことを小説にしたわけではない。ヤマもあれば意味もオチもある。起承転結があって、物語があるのである。

 主人公もあくまで創作されたものであって、作者本人ではないのである。そんな登場人物をこさえただけなのだ。

 自分が経験したことや感情を書けば、まんま小説になるのではないか?

 そうした方が、読者により自分を理解してもらえるのではないか?

 承認欲求が満たされるのではないか?

 そんな勘違いを、ついついライターはしてしまいがちだ(特に女性に顕著だと思う)。しかし小説というのは、単に自分を主人公にして自分の気持ちを描いて、読者に自分を認めてもらうものではないのである。

 物語に起承転結をつけて、自分の経験を元にして、自分とはなるべく遠い登場人物を描くのが小説なのである。よく言われるではないか、「経験しないで小説を書くのがダメなら、推理小説のために殺人を経験しなければならなくなる」と。

 自分の経験を大切にしつつも、なるべくそれから遠いものを想像したり、あるいはそれを読者に想像させるのが小説家の仕事なのである。

 で、その想像力は残念ながらライターは作家よりもはるかに劣る。

 自分よりも遠い登場人物や、物語づくりの能力が小説家よりも決定的に劣っている。ヤマや意味やオチをつけられないのが現実なのだ。

 だからライターが小説っぽいものを書く時があるが、なんとなく主人公が自分らしき人物で、しかも短編の寄せ集めだったりするのだ。

 小説家としてはっきり無能なんだが、、承認欲求をこじらせてる女性ライターにとって、逆にそんな作品を書くのは魅力的に思えてしまう。

 だって自分を読者に認めてもらった気がするから。

 作者本人と似てはいるが、しかし自分とはなるべく違う主人公を描くのが小説家の才能だ。だから難しいし、皆がそれに苦しみながら挑むのである。

 だが勘違いしたライターが小説を書く場合、自分に近ければ近いほど、書いてる自分は心地いい。承認欲求が満たされてしまう。

 どうも、はあちゅうがイメージする「自分の中から出るものを書くのが作家」というのは、そういったものではなかろうか。

 だけど、それはでっかい勘違いなのである。

 ライターが小説っぽいものを書くが、主人公が限りなく作者本人に近いし、物語づくりのスキルがないので盛り上がりに欠けるものになりがちだ。そもそも物語じゃなかったりすることも多い。

 長編を書きこなす文章の体力もないので、短編の寄せ集めで本を出してしまう。それぞれにオチはついているが、起承転結のある結末と単なるオチは別物だ。ライターだから妙な小説家よりは文章は上手く、退屈しないで最後まで読み通すことはできるが……。

 ライターが書いた小説らしきもの、あるいはエロ職業やってた女性が小説らしきものを書いた場合、そんなものになりがちである。サブカル系の人々が小説を書いた場合、ほとんど全てがそうなってしまう。

 名前を出したくないが、死んだあの女性とか、あの女性とか。生きている現役エロ女性だと、あの人とか。はっきり感じが悪いので名前を出してしまうけど、桝野幸一の離婚小説などモロにそうだしな。

 そんな短編小説らしきものに、オチだけつけて一冊にまとめて「作家でござい」「自分の中から出てきたものを書きました」「自分が承認されました」という状態にはあちゅうがなるのが目に浮かぶわけだが、それはちょっと違うよな。

 短編にオチだけつけて寄せ集めで一冊こさえて終了。

 そんな安易な姿勢をライターはやりがちだ。それから脱却するのがライターが小説を書く時のキモではないかと思う。

 残念ながら町山智浩ですら、同じ落とし穴にモロにハマってしまった。

 進撃の巨人の映画を観て愕然としたのだが、個々の登場人物の短編を寄せ集めたものでしかないシナリオだったのである。私が前述したような、「いかにもライターがやりそうな初歩的ミスと勘違い」をそのまんまやってしまっているのだ。

 そりゃエピソードごとに結末というかオチはついてはいるが、そもそも原作に結末やオチがあって、それをなぞってるだけだしなあ。自分で考えたとは言いずらいべよ。

 あれだけ映画を観ていて、全ての登場人物と物語構造を記憶しているのに、実際に自分で書くとなると物語スキルと体力のないライターが物語を書くのはキツいものなのだ。

 むろんいろんな悪条件が重なってそうなったのは忖度するが(よく出るなこの言葉)、とはいえやはりライター的なミスだと思う。

 町山智浩ですらそのていたらくなのだから、ましてやはあちゅうとなるとね。

 くどいようだがオチだけつけた短い文章を寄せ集め、「短編集を出しました。小説家でござる」と1人で感動したりご満悦になったりするのは勘弁してもらいたい。

 なるべく自分よりは遠い主人公を動かしてしっかりと起承転結をつけ、ガツンと読みごたえのある長編を書き下ろしてから、作家を名乗って欲しいと思う。

 (この項、しつこく続きます)