AKB総選挙は八百長総選挙(2)

 熱い戦いが無いAKB総選挙は退屈だ。そんなものは茶番劇総選挙、八百長総選挙だ!……と、強引にブチあげて前回は終了した。

 指原莉乃渡辺麻友のどちらかが必ず1位になり、指原渡辺を追い落とす新人がいないのだから、選挙前で既に結果がわかってるわけである。

 やる前から結果がわかってるのなら、八百長だよなあ。

 だってつまんないんだもん。

 つまんない総選挙は、八百長総選挙なんだよ。

 過去のAKB総選挙は前田大島の壮絶な1位争いは、自殺者すら出しかねない激しいものだった。だが最近の総選挙は指原渡辺の、どうでもいい1位争いである。指原渡辺の間には、熱い戦いはない。

 だから総選挙がつまんないのである。

 女のコが1位を目指して熾烈な死闘をくりひろげ、その結果に一喜一憂して情緒不安定になり、感情のほとばしるスピーチをするから見てて面白いわけだ。自殺者が出そうなほどだから、ドキドキするのである。

 見ていて興奮するからAKB総選挙なのだ。

 なのに最近は熱い戦いによる興奮がない。

 これではただの人気投票ランキングである。

 ただのランキング番組がAKB総選挙であってはならないのである。

 で、近年の総選挙がつまんないのは、前田大島の1位争いのような面白さが、指原渡辺の1位争いには無いからである。てゆうか、そもそも指原渡辺は互いをライバル視もしていないし、1位を獲ろうとしてるようにも見えない。

 だからつまんないのである。

 では指原渡辺を徹底的に対立させて、不仲にさせた上で熾烈な戦いをくりひろげさせればいい……だなんてつい考えてしまうよな。

 ところが、それはできないっぽいのである。

 それはなぜなのか? と分析する前に、AKBクイズをやってみよう。

 これまでAKB総選挙で1位をとったことがあるのは、前田敦子大島優子指原莉乃渡辺麻友の4名。この中で1人だけ、仲間外れのアイドルがいる。

 仲間外れは誰なのか?

 そして仲間外れの理由は何なのか?

 皆さんにちょっと考えていただきたいのだ。もしお暇があればなのだが。

 クイズの回答はAKB総選挙は八百長総選挙(3)でご説明させていただきます。

AKB総選挙は八百長総選挙(1)

 桜が散る季節になると、AKB総選挙を思い出す。そろそろメディアで話題になり始める時期だからだ。アイドルで感じる季節感なんてのもあるのが、2017年の日本だよな。

 AKB総選挙というのは不思議なイベントだ。

 若い女のコの情緒不安定なスピーチを見物して喜ぶという、言葉にしてしまうと何が面白いのかサッパリわからないモノだからである。

 若い女のコが、情緒不安定になってスピーチする……。

 何が面白いんですかね!

 しかし面白いから、毎年気になってしまうわけだが、しかし段々つまらなくなってきたのも現状だ。前田大島の熾烈な1位争いがあるわけでなく、とりあえず順位が決まるだけでは見どころがない。

 今さら指原莉乃渡辺麻友が1位になるとこ見ても、あたり前すぎて驚きがない。指原と渡辺の間に、勝負の因縁や遺恨や物語がないからである。

 前田大島が1位を争うのも面白いが、指原渡辺が1位を争っても退屈だしなあ。山本彩松井珠理奈が1位争いにからんでくれば、面白さが出てくるわけだが、彼女たち伸び悩んでるし。

 次世代の騎手にすべく松井珠理奈を推してきたものの、期待したほどには成長しなかったのが現状だ。ヒヨコが生まれなかった卵みたいなアイドルだよね。松井珠理奈

 AKB総選挙の面白さとは、1位を目指してアイドルが死闘をくりひろげる熱い戦いにあったはずだ。だがそれがここ2年くらいはない。戦いもなく、盛り上がりもなく、ボンヤリと順位が決まるのを見物してるだけでは、ただのアイドルランキング番組でしかない。

 そんな退屈な総選挙は茶番劇でしかない。

 AKB総選挙は八百長総選挙なのだ。

 (続く)

最近の私

 油断してると1日30アクセスまで減ってしまう当ブログ。1日100アクセスは欲しいが、なかなかそこまでたどり着かん。がんばって更新しますかね。

 そんな状態だが2週間ぶりに1日330アクセスがあった。菅野完に引用RTされたからかだと察するが、それでも330どまり。うしじまいい肉だと3500アクセスですからね。

 菅野完はうしじまいい肉の1/10以下、桝野幸一はうしじまいい肉の1/100以下というわけである。

 メディアって不思議だよなあ……。

 今の私の認識で知名度ランキングをすると、

 

 菅野完 > 桝野幸一  > うししじまいい肉

 

 といったものだった。しかしネットでの現実はどうかとゆうと、

 

 うしじまいい肉 >(圧倒的な壁)> 菅野完&桝野幸一

 

 なのである。菅野や桝野はうしじまの1/10以下の影響力しかない。インフルエンサー度(?)的な価値観でいえば、そうなる。

 個人的には同じ出版人で親近感のわく、菅野や桝野にがんばっていただきたいところだ。エロ下着プロデューサーに負けてます……では、情けない話だからである。

 まあ、私もがんばらにゃいかんわけだが。

前田敦子はなぜAKBのセンターにされたのか?

 前田敦子AKB48のセンターに抜擢された理由が、いま一つはっきりしない。

 結果的には彼女以外に考えられないわけだが、あくまで結果論だ。前田敦子がセンターにふさわしい理由を後出しジャンケンで出してるにすぎない。

 前田をセンターにするのは、ブレイクする遥か前のこと。AKBが地下アイドルでしかなかったころに決まった。秋葉原の狭くて小さな劇場でライブやってた頃に、前田をセンターにすると決まった理由がピンと来なかったわけである。

 ……で、バラエティ番組を見ていた時に理由らしきものに気づいた。

 AKBの初期段階で、前田敦子と一緒にセンターやってたコが出演してたのだが(名前は忘れた)、目の形が前田敦子そっくりだったのである。てゆうか、ほぼ同じだった。

 ま、大人の事情とゆうか、医学的な事情というか、はっきり口にできない理由で彼女と前田敦子は同じ目の形をしている。同じメヂカラなわけだ。

 AKBのごく初期に、センターを務める女性に求められるメヂカラというのがあったわけだ。それにそのコと、前田敦子に従った結果、彼女たちは同じ目のカタチになった。

 そうゆうことじゃないかと思うのだ。

 小箱で地下アイドルを見物している時に気づいたのだが、ある女のコがセンターで歌っている時だけ、グループ全体の見栄えがビシッと締まるのである。そしてそのコが格別にかわいいわけではない。

 ブスではないが、普通にかわいいだけなのである。

 他のコたちだって同じくらいにかわいいのに、何で彼女がセンターにいる時だけ全体のビジュアルがビシッと締まるのか、よくわからなかった。

 わからなかったから、じっくりと観察した。

 そして気づいた。

 ポイントは目の大きさだったのである。

 不思議な話なんだが、なるべく目のデカいコをセンターに据えたほうが、グループ全体がまとまって見えるのである。

 むろん動画で見たり、雑誌の写真で見てる限りでは気づかない。あるいはアリーナやドームといった大箱で観てもわからない。遠すぎて目の大きさまでわかるはずもないからである。

 しかし秋葉原の小劇場で見ると、目の大きさまではっきりとわかる。そんな環境でセンターを務める女のコには、デカい目が求められるのである。

 前田敦子にはデカ目という印象がない。

 そんな反論をされそうだが、これはあくまで他のメンバーと比較しての大きさである。大島優子指原莉乃よりもデカ目ではあれば、センターを務めるにふさわしい。AKB以外の眼の大きいコと比較する意味はないのだ。

 で、前田と一緒にセンターだったコの瞳は、前田敦子と同じものなのだ。

 つまり運営サイドが求めるメヂカラというのが最初からあって、それに前田敦子とそのコが適応し、その目のカタチに進化したのである。なるべくデカい眼で、なるべく前田のあのカタチで。

 しかもそれは今の前田敦子の眼の形ではない。

 今の彼女はグループアイドルのセンターではなく、ソロ活動するきれいめ女優さんだ。求められるメヂカラが違うから、別の進化を遂げている。あくまでAKB当時の彼女の眼の形がセンターとしてはベストだったと認識していただきたい。

 私が言及したい裏の意味を忖度していただけるだろうか?

 前田敦子をセンターに推したのは、秋元康とダンスの先生だったと噂できいた。ダンスの先生はライブ志向なので、動画や写真での見栄えよりもライブでの見栄えを重視する。

 この場合は秋葉原の小劇場という、狭くて小さい箱でのグループ全体の見栄えである。

 すると他のメンバーと比較してデカ目の前田敦子をセンターにした方がすわりがよく、グループ全体がビシッと締まることに気づいたのではないだろうか。そして秋元康も同じ意見だった。

 小箱で活動する地下アイドルのセンターを誰にするか考えた時に、比較的デカ目のコをとりあえずセンターに置いとくのは、ごく当たり前の判断だ。ごく定番の考え方で、別に不思議なことではない。

 しかもセンターは不動ではなく、適度なタイミングですげ換えるものという考えを秋元康が持っていたとしたら、「とりあえずデカ目の前田でも置いとくか」という判断で何の問題もない。

 比較的にデカ目の前田を置いて機能しなければ、大島でも渡辺でも誰でもいいからスイッチすればいい。どうせいつか換えるのだから、今現在は前田で試してみるか……というノリだったのではないか。

 前田敦子がセンターに抜擢されたのは、その程度の理由だったんじゃないかと思うのだ。

 前田敦子と同じ瞳をもつ、もう一人のアイドルがいた。

 前田と同じ道を歩むべく進化したのに、表舞台から消えてしまった。

 運命の不思議さに、しみじみとしてしまうのである。

作家(小説家)はライターよりも格上なのか?(4)

 とあるベテランライターが「オファーがあって書くのがライター。オファーがないのに書いてるのが作家」などと珍妙な理論を展開した。

 はっきり言って私は彼のことを全くライターとして評価しておらず、しかも彼がちょこちょこ書いている短文の「小説モドキ」を苦々しく思っている。

 そんなもんたまに書いてるくらいで「小説くらい俺にも書ける」的なツラをされるとイラッとするよね。登場人物づくりと、物語づくりのスキルが低すぎなんだよ。志が低すぎなんだよ。

 そんな人物の珍妙理論にイラっとさせられたわけだが、別に彼を批判するつもりは全くない。どうでもいいから放置したいし、かかわりたくもないのである。

 ただ彼の珍妙理論を読んで、何か間違った知識を植えつけられた人もいそうなので、ここはひとつ訂正しておきたい。

 確かに自費小説を出版して作家を名乗ったり、あるいはノーギャラで何かを制作して「**作家」を自称する人物は大勢いる。オファーもギャラもないのに、そんなことをしてる人々に対して、金になる原稿しか書かないライターが「格上意識」を持つのは別に構わない。実際に格上なんだろうし。

 しかし金もらわないと文章を書けないような人物は、小説家という意味での作家になるのはむいてない。だって、受かるかどうかわからない新人賞に、原稿用紙何百枚もの小説を書いて応募することから、キャリアがスタートするのだから。

 デビューしてないからノーギャラ投稿小説を書くのは当たり前……なんて思った人々もいるかもしれない。だが現役ベストセラー作家で直木賞をとった男が、数百枚の原稿を書いたあげくに自分でボツにしたと語っていて仰天した。

 明らかに出せば売れるとわかっているものを、クオリティに納得できないからボツにするというのに衝撃を受けたのである。それから興味をもってリサーチすると、実は小説家が編集部に原稿を預けたものの、出版されないで眠ってるものが実は意外に多いと知ってさらに衝撃を受けた。

 あの先生や、あの先生の原稿がオクラ入りになってるのかよ!

 数字もってる先生なのに、そうなのかよ!

 厳しすぎる小説業界に腰が抜けるほどショックを受けてしまった。原稿預けてオクラ入りでは金銭的、アキバ系同人誌以下。誰にも読んでもらえないのだから、このブログ以下。なんつってな。

 ……で、何が言いたかったかと言えば、小説家とライターの境界線の一つに「ノーギャラ原稿を書けるか否か」というのがあると思うのだ。新人賞用のノーギャラ原稿を何百枚と書かなければデビューできないし、売れてる作家でもオクラ入りするノーギャラ原稿を書いてたりする。

 そのような準備をすることなく、オファーがあった時だけライターが小説を書くのでは、それは小説モドキにしかならないし、そもそも長編を完成させることなどできない。

 ノーギャラ原稿を書かないことを誇るライターが、低クオリティの小説モドキを書いてご満悦ではカッコ悪い。小説ってそんな甘いもんじゃないのだから。新人賞に応募したことすらないライターが、えらそうな口をきくべきではないのだ。

 ライターと小説家は似てはいるが別の職業。だったら妙な色気を見せたりしないで、ライターとして良質な原稿をひたすら書くべきだ。

 読者があなたに求めているのは、ライターの良質な原稿であって、低レベルな小説モドキではないはずだから。

山田朱莉が夢みるアドレセンスを卒業(2)

 夢みるアドレセンス山田朱莉と、ユーチューバー・サグワの交際発覚の炎上を見物しながら、ふと思い出したのは地方のAKBの後ろのほうで踊っていた女子校生のこと。

 彼女は担任だった教師とつきあっていて、彼と撮影したプリクラが流出。引退した。

 不思議なのは、プリクラの流出経路だ。

 普通に考えたら女のコ本人と、彼氏の教師しかもっていないものである。そりゃハッキングされたり、友達にあげたモノが流出というのは可能性としてありうる。

 でもなあ、ついつい教師がわざと流出させたんじゃないかと疑ってしまう。

 プリクラを見たところ、何のとりえもない地方都市の田舎教師に見えた。教師と教え子という関係性でなら、人生でただひとつのマグレでAKBにいるような女子校生とセックスできてしまう。

 しかし、そんな幸運は彼の人生で2度と起きないのだ。

 宝くじの1等賞に、2回も当たることがないように。

 恋人の女子校生がAKBの後ろのほうで踊るのは別にいい。誇らしくもあるし、ちょっと周囲に自慢したくもなる。

 だがアイドルやってたら自分よりも顔がよくて、金をもってる男たちとも出会ってしまう。そいつらと争って勝てる自信は、正直なかろう。愛はうつろいやすいものだし。

 だったらとっととプリクラ流出させて、夢をあきらめさせるほうがいい。自分が流出させたとバレないように、わざと女子校生の女友達にプリクラをまくように勧めたりしてな。そうやって拡散させておけば、自分が疑われても言い訳できるし。流出ルートを特定できないのだから。

 そうやって裏アカやプリクラを彼氏にバラされたり、流出させられた時に女のコはどんな気持ちになるのだろうか?

 「あたしの夢を応援するどころか、つぶすなんてアリエナイ!」

 ……なのだろうか?

 「バラしたり、流出させてまで、あたしを自分のモノにしたかったの? そんなにあたしのこと、好きなの? 本気なんだね!」

 ……だなんて、喜んでしまうのだろうか?

 今の山田朱莉なら、喜んでしまいそうだ(笑)。恋する女性とは、そうゆうものかもしれん。

 だけど恋愛って意外に長続きしない。

 基本的には3年以上は続かないものだと私は考えてしまう。結婚したって離婚はするし、過去にどれだけの恋愛や結婚による、円満寿引退をしたアイドルが、男と別れた後で芸能界に戻ってきたか。

 戻ってきたところで昔のようには売れないし、「男と別れて芸能界に戻るくらいなら、最初から引退すんなよ」と冷ややか目線で見られてしまう。スピードの島袋寛子なんて、モロにそうだったもんなあ。

 3年後の自分をイメージしていたのだろうか?

 スピードにせよ、夢みるアドレセンスにせよ、売上は落ちるにせよ3年後もかわらず活動していただろう。

 だけど自分が選んだ男と、3年後もラブラブな可能性は悪いがゼロだ。少なくとも引退直後のような激しい感情はないのである。

 そう考えると男よりもアイドル仕事をとるべきだと思うのだが、いかがだろうか?

作家(小説家)はライターよりも格上なのか?(3)

 はあちゅうは小説家という職業も勘違いしている。

 「自分の中から出てくるものを書くのが作家(小説家)」という定義を彼女はしたが、作家だって取材はやる。ダメなライターよりもはるかに熱心にやる人たちは多い。歴史小説や時代小説になると、資料集めで1千万はかかるとまで言われるほどだ。

 とんでもない取材量が要求される小説というのは、存在するのだ。

 あと小説・マンガ・映画などでよく指摘されることだが、「過去に自分が体験したものの中から、組み合わせて作られるのが登場人物と物語。完全なオリジナルはない」という現実もある。

 はあちゅうが考えているような、「自分の中から出てくるもの」を書いている小説家は実はいないのではないだろうか? 私小説などはそれに該当するだろうが、しかし西村賢太の小説を読んでいても落語の技法が活きているのを確かに感じる。

 自分の中から出たものを書いてはいるが、単に自分が経験したことを小説にしたわけではない。ヤマもあれば意味もオチもある。起承転結があって、物語があるのである。

 主人公もあくまで創作されたものであって、作者本人ではないのである。そんな登場人物をこさえただけなのだ。

 自分が経験したことや感情を書けば、まんま小説になるのではないか?

 そうした方が、読者により自分を理解してもらえるのではないか?

 承認欲求が満たされるのではないか?

 そんな勘違いを、ついついライターはしてしまいがちだ(特に女性に顕著だと思う)。しかし小説というのは、単に自分を主人公にして自分の気持ちを描いて、読者に自分を認めてもらうものではないのである。

 物語に起承転結をつけて、自分の経験を元にして、自分とはなるべく遠い登場人物を描くのが小説なのである。よく言われるではないか、「経験しないで小説を書くのがダメなら、推理小説のために殺人を経験しなければならなくなる」と。

 自分の経験を大切にしつつも、なるべくそれから遠いものを想像したり、あるいはそれを読者に想像させるのが小説家の仕事なのである。

 で、その想像力は残念ながらライターは作家よりもはるかに劣る。

 自分よりも遠い登場人物や、物語づくりの能力が小説家よりも決定的に劣っている。ヤマや意味やオチをつけられないのが現実なのだ。

 だからライターが小説っぽいものを書く時があるが、なんとなく主人公が自分らしき人物で、しかも短編の寄せ集めだったりするのだ。

 小説家としてはっきり無能なんだが、、承認欲求をこじらせてる女性ライターにとって、逆にそんな作品を書くのは魅力的に思えてしまう。

 だって自分を読者に認めてもらった気がするから。

 作者本人と似てはいるが、しかし自分とはなるべく違う主人公を描くのが小説家の才能だ。だから難しいし、皆がそれに苦しみながら挑むのである。

 だが勘違いしたライターが小説を書く場合、自分に近ければ近いほど、書いてる自分は心地いい。承認欲求が満たされてしまう。

 どうも、はあちゅうがイメージする「自分の中から出るものを書くのが作家」というのは、そういったものではなかろうか。

 だけど、それはでっかい勘違いなのである。

 ライターが小説っぽいものを書くが、主人公が限りなく作者本人に近いし、物語づくりのスキルがないので盛り上がりに欠けるものになりがちだ。そもそも物語じゃなかったりすることも多い。

 長編を書きこなす文章の体力もないので、短編の寄せ集めで本を出してしまう。それぞれにオチはついているが、起承転結のある結末と単なるオチは別物だ。ライターだから妙な小説家よりは文章は上手く、退屈しないで最後まで読み通すことはできるが……。

 ライターが書いた小説らしきもの、あるいはエロ職業やってた女性が小説らしきものを書いた場合、そんなものになりがちである。サブカル系の人々が小説を書いた場合、ほとんど全てがそうなってしまう。

 名前を出したくないが、死んだあの女性とか、あの女性とか。生きている現役エロ女性だと、あの人とか。はっきり感じが悪いので名前を出してしまうけど、桝野幸一の離婚小説などモロにそうだしな。

 そんな短編小説らしきものに、オチだけつけて一冊にまとめて「作家でござい」「自分の中から出てきたものを書きました」「自分が承認されました」という状態にはあちゅうがなるのが目に浮かぶわけだが、それはちょっと違うよな。

 短編にオチだけつけて寄せ集めで一冊こさえて終了。

 そんな安易な姿勢をライターはやりがちだ。それから脱却するのがライターが小説を書く時のキモではないかと思う。

 残念ながら町山智浩ですら、同じ落とし穴にモロにハマってしまった。

 進撃の巨人の映画を観て愕然としたのだが、個々の登場人物の短編を寄せ集めたものでしかないシナリオだったのである。私が前述したような、「いかにもライターがやりそうな初歩的ミスと勘違い」をそのまんまやってしまっているのだ。

 そりゃエピソードごとに結末というかオチはついてはいるが、そもそも原作に結末やオチがあって、それをなぞってるだけだしなあ。自分で考えたとは言いずらいべよ。

 あれだけ映画を観ていて、全ての登場人物と物語構造を記憶しているのに、実際に自分で書くとなると物語スキルと体力のないライターが物語を書くのはキツいものなのだ。

 むろんいろんな悪条件が重なってそうなったのは忖度するが(よく出るなこの言葉)、とはいえやはりライター的なミスだと思う。

 町山智浩ですらそのていたらくなのだから、ましてやはあちゅうとなるとね。

 くどいようだがオチだけつけた短い文章を寄せ集め、「短編集を出しました。小説家でござる」と1人で感動したりご満悦になったりするのは勘弁してもらいたい。

 なるべく自分よりは遠い主人公を動かしてしっかりと起承転結をつけ、ガツンと読みごたえのある長編を書き下ろしてから、作家を名乗って欲しいと思う。

 (この項、しつこく続きます)