シコふんじゃった
シコふんじゃった、を鑑賞。
冒頭と要所で挿入される、ジャン・コクトーが相撲について評したフレーズが効いてると思った。好きなシーンだ。なんとなく楽しい気分になるので、ギャグとして効いている。相撲の魅力をナレーションとして伝えてもいる。
使える小技だと思った。
谷口ジローのマンガで、似たシーンがあったな。ヤクザどうしが殺しあうシーンだったと記憶しているが、あれもフランス人がコクトー調で描写していた。
シリアスなシーンだったので、さほど効果的ではなかったかもしれん。ギャグとして使うなら、アリというところだろうか。
映画前半はチトもたつく印象があった。
主人公が相撲にハマってゆく過程が、ピンとこないのだ。ヒロインがいるからとか、ライバルや先輩に愚弄されて悔しいからとか、ぼんやりと理由はわかる。
でも、ここは普通に説明ゼリフでわかりやすく観客に伝えるべきじゃないかなあ。特に先輩たちに愚弄されるシーンでは、「そこまで言わなくてもいいじゃないすか。勝てないだけで、みんながんばってるんだし」などの、自分の心理を説明しながら怒るシーンがあってもいい。
前半のモタつきは、ギャグ不足と相撲の試合がないからからかもしれない。ギャグをいれながらの相撲シーンかあると、ぐっと面白さが増してくる。
凄いと思ったのは、ただのデブ女子が相撲の試合に挑むシーン。
死にそうになった力士を救助するために、看護師女性が土俵に上がったことを相撲協会が批判。炎上したという事件があった。また子供女力士が土俵にあがれずに炎上したりなども。
そんな2018年の現状を26年も先取りし、1992年に描いた本作はいかにも早すぎるわけだ。デブ女子をまわしをつけて、土俵にあがる画面はあまりにも衝撃的である。
しかも女力士役の女性は、「肥満体型の若い女性」ということで募集された公開オーディションで選抜された味ある顔のデブ女性。これ以外に演じる役などあるはずないが、映画の中では燦然と輝いている。
女性が男性と嘘ついて出場するのだから、バストはどうする? などという根源的な疑問がわくはずだ。まさかまるだしにするわけにもいくまい。
いや、女性のモノに見えなくもないバストのデブ男子もいるから、意外に乳まるだしでイケるのか? しかし公開オーデで集めたデブ女性がデビュー作で乳出しに納得するものかどうか?
そんな疑問がわいてきたブログ読者は、ぜひ本作をチェックしていただきたい。
オススメである。
●似た内容のマンガで、「うっちゃれ五所瓦」というのがある。これもハッキリ面白いので、ぜひご一読していただきたい。
●元シブがき隊の本木雅弘(もちろんジャニーズ出身)の生尻が、たっぷり拝める良作。女性のみならず、そっちの男性でも楽しめる映画である。ユーのおしり、かわいいわよ!
真夏の方程式
真夏の方程式を鑑賞。
傑作。
後半の泣ける展開。泣ける展開。泣ける展開……とたたみかけてくるところにしびれた。今どきの作品はこうでなければいかん。こうでなければ読者と観客を満足はさせられん。
ミステリーの形式だが、メインディシュはあくまで人間ドラマ。そこで徹底的に詰め込んで、徹底的に楽しませる。さすが原作の東野圭吾はヒットメイカーと感じた。
あと監督がもしかしてお尻好き? 杏ちゃんのヒップにカメラマンの興味関心が集中してるような気がして、ゲスの勘ぐりをしたくなってしまった。
日焼けした痩せた漁村娘の役作りには、踏み込んだものを感じさせられたが。
あと柴咲コウにかわって出演する吉高由里子がよくわかんなかったな。「お仕事ですから」と柴咲コウに寄せた演技をしてるように見受けられたが、刑事ではなくOLさんに見えたぞ。東京タラレバ娘感が漂っていた。
あんま出番がないので柴咲コウを使う必要があんまりない。柴咲はギャラが高いから吉高にしとくか……的な業界裏事情を妄想したくなるのは、私だけだろうか?
あと芸能人としてはスリム体型ではないのかもしれず、スーツがパンパンに膨らんでるように見えたのもなあ……。着てるスーツ、スーツカンパニー? それともスーツセレクト? 懐かしの23区?
どうでもいいことばかり気になってしまう。
とりあえず吉高由里子は痩せたほうがいいよね。
ガタイよし子さんと感じた。
あと結末なんだが、小説や映画として現行のものがベストと思う。ただザ・地上波の価値観、つまり勧善懲悪的なすわりの良いものにしたい……と考えた場合。ついつい刑事ドラマの相棒をイメージしてしまうわけである。
ここで水谷豊が名推理を炸裂させた場合、いろんな事情があるのは忖度はするけれど、やっぱり犯罪はダメ絶対! とボリュームのある説教をして逮捕するだろうなと感じた。もちろん緊張感のある長まわしで。
しかし、まあ、水谷豊の相棒ではなく、福山盲雅治のガリレオなので、これがベストだと思うのだ。
エンドオブザワールド
エンドオブザワールドを鑑賞。
2004年のテレビドラマ版のほう。
タイトルは原作小説の「渚にて」のほうが、イメージをかきたてられるので良かったなあ。
世界の終わりは、なぜか波打ちぎわがふさわしい気がする。それも夏が一番だな。夏は終わるものだから、終末感が似合うのかなあとも思ったり。
僕ら人類は海から陸にあがった生物だから、死ぬときは海にまた戻りたくなるのだろうか? 水のむこうにあるのは三途の川の死の世界かもしれないし。
星新一が、海にボートを出して死を待つシーンをほめてたなあ。確かに一人で死を待つなら、そうするのがいいよな。
そう思って楽しみにしてたシーンだったが、見てがっかり。小さなゴムボートにのって、狭苦しそうにしながら、魚がいそうにもないのに釣り竿を出してるのはマヌケな気がした。
しかもそれがラストシーンかと思ってたら、全然違ったとゆう(笑)。
渚のシーンはあったが、どれもそんなに美しくはないのだ。
いろいろがっかりさせられた。
世界の終わりを描いた映画だと、渚のシーンが美しいといいよねえ。タイトルは忘れたけど、フォックス系列の映画で、隕石落下で人類が滅亡する映画。あれは渚で主人公とヒロインが結婚式をあげるシーンがきれいでよかったなあ。
主人公とヒロインがベッドで終末を待つ。死の恐怖におびえる彼女をなぐさめる男。ドーン、ドーンと隕石が落下する音がきこえる。それが近づいてくる。画面が暗転。
同じテーマだけど、渚の美しさと終わりの描き方はこっちのがよかった気がするね。
探偵はバーにいる
探偵はバーにいる、を鑑賞。
この時代にハードボイルド映画をつくるという意欲に感心した。ありがたいことである。
とはいえ画面があまりに80年代の探偵ドラマなのはいかがなものか? 懐かしの松田優作の「探偵物語」をついつい思い出してしまうのだ。
主演の大泉洋が、がんばってるのはわかる。しかし画面があまりに80年代探偵ドラマ調なので、ついつい「松田優作が演じたら、もっと凄いのになあ……」「この役、柴田恭兵じゃダメなの?」と、ついつい考えてしまう。
松田優作の嫡男の松田龍平が脇役で出演しているが、これはオマージュなのだろうか? いっそ主演で登場し、父親越えする演技を見せて欲しいのだが……。
衝撃的だったのはヒロイン役で登場する小雪。
キャバクラのホステス役で登場する。ロングヘアのいい女っぷりはさすがなんだが、どうしても萬田久子感が漂ってしまう。むしろ篠ひろ子の方が良かったのでは? いや、それとも懐かしのダブル浅野か……。
いかせん画面が80年代だから、ついつい昭和のロングヘア女優をイメージしてしまう。懐かしい画面には、懐かしい女優が似合う気がしてしまうのだ。既視感がすごすぎとゆうか。
いまどきの若い映画ファンはそんなこと考えないのだろうが、オッサンの私はついついそんなことを考えてしまう。これが老害の入口なのだろうか?
さて、特筆すべきは北海道とススキノの風景だ。
80年代の探偵ドラマが描かれるのは、東京や横浜の風景の中でだった。松田優作や柴田恭兵や舘ひろしは、それらの街の中で輝いた役者だったのである。
ところが本作の舞台は北国の街、ススキノ。東京や横浜と違い、非常に新鮮なのである。歓楽街もあるゆえに、ハードボイルドも映える。
この街で展開する探偵モノを、また見たい気にさせられた。
ぜひシリーズ化を希望したい。
サイレントヒル2(ゲーム動画)
サイレントヒル2を鑑賞。
結末はいい。
しかし結末に至るまでの伏線らしきものがあるだけで、結末をより盛り上げるためや、より感動的なものにするための工夫がない。
退屈させない熱量高めのエピソードが次々に描かれ、最後に結末をくっつけて物語は完結。いわゆる串団子形式だ。
初歩的で雑な物語構成なのである。
もっと前半部分から結末を匂わせながら、主人公が真相に気づきそうになりながら、気づきたくない……といった葛藤を描くべきではなかったか?
……って、実は小生、小説を2冊ほど出版したことがある。
2冊めを書いた時は地獄で、締切の重圧につぶされそうになった。脳汁がブシャーっとほとばしり、こうすれば物語を完結させられるのだという手ごたえをつかんだ。。
それは確かな感触で、力強いものだった。
しかし強烈に限界も感じた。
締切のプレッシャーは強烈だし、作品はよくある夢オチ(一度はやりたいものなのだが……)。しかも、ここでは書けないような恥ずかしいことが沢山あり、挫折感を味わった。
苦かった。
しかしサイレントヒル2を見ていて気づいたのだが、実は私の2冊めと本作は内容がよく似ているのである。夢オチで、男が真相を悟る内容だし。
昔の自分はがんばってたんだなあと思ってしまった。
ホラーなどロクに読んだこともないのに挑戦し、世界的なヒットゲームと似た物語を書いてしまったのである。
そりゃ、売り上げがイマイチだったとか、クオリティ的に不本意とか、問題は多々ある作品ではあった。
しかし世界的なヒット作と似た内容なのは事実なんだし、至らないなりによくやったのではないかと自分をホメてやりたい。
もう一回、チャレンジしてみようかな……。
そんな気にさせられた。
本作をプレイしてそんな感想を持つのは私ひとりくらいだろうが(笑)、素直な本音として書きとめておきたかった。
ある映画評論家の時系列(1)
町山智浩を発達障害と断定するな……という指摘を何人かの方々からいただいた。
超基本的なことを改めて説明するのも面倒だが、町山は自身の発達障害について「中途半端」に公言している。カミングアウトしているのか、カミングアウトしていないのか、微妙な状態なのだ。
どっちなんだよ!
……とムカつく読者もいらっしゃると思うので、時系列で解説したい。
町山の発達障害についてのカミングアウトの初出は、1991年1月に発売された『ファビュラス・バーカー・ボーイズの地獄のアメリカ観光』が最初である。町山智浩とガース柳下の対談でのことであった。
ネットで拾った当該部分を、以下に引用する。
ウェイン (略)タランティーノは十五歳で学校辞めちゃった。
ガース 何が原因で?
ウェイン 落ちこぼれて登校拒否してたんだ。そもそも小学校の頃から
落ち着きがなくて先生の言うことを全然聞けない子だった。
ハイパーアクティヴ(注1)だったんだよ。
ガース それ、あんたと一緒やん(笑)。
ウェイン そそ、だから他人とは思えない(笑)。でもオレはタランティーノ
みたいにリタリン投与されなかったけど。
注1:活動亢進。多動性障害。ADHD。
要注目なのはタランティーノが小学校の頃からADHDだったと町山が発言し、ガース柳下が「あんた(町山のこと)と一緒やん」と町山もそうだと指摘してるくだりである。
……と食いつきたくなるとこだが、ちょっと待った。町山は小学校の頃からADHDだったということは確定したが、このムック本が発売された1991年1月の時点で彼がまだADHDであるとは、書かれていない。
町山は小学校の頃からADHDだったが、中学生や高校生の頃にはADHDを克服しているかもしれない……という逃げ道を残している。
さらに町山は「オレはタランティーノみたいにリタリン投与されなかった」と釘を刺す。これをどう読むかは個人の判断によるが、うっかり「町山はリタリンを処方されていないので、タランティーノよりもADHDは軽度であった」と解釈してしまいそうなフレーズだ。
大人になった現在はADHDではないとアピールしているのか、あるいは町山本人が1991年1月の段階で自分がADHDではないと信じているのか断定できない。
町山智浩vs上杉隆の討論の中で、当該の部分についても言及された。以下に引用する。2012年1月から2012年2月にかけてのツイートである。
要注目なのは町山智浩のツイートで「僕の子供時代の障害」と子供時代の障害であることを強調し、「(町山智浩個人のADHDがどうかはわからないが、あくまで一般論としてADHDは大人になると)治ることが多い」と強調した部分である。
( )の部分は私が追加した。
上杉隆とパンダロウの間では、町山智浩は2012年1月の段階でも発達障害であり、カミングアウト済みという認識で語られている。
しかし町山のツイートを熟読すれば、2012年1月の段階では自身が今もなお発達障害かどうかは町山本人はカミングアウトしていない。それどころかあくまで一般論としてADHDは大人になると治ることが多いと町山はツイートしている。
2012年1月の段階では町山智浩はADHDは治っていると、うっかり解釈してしまいそうな文面と文脈だ。
2012年1月において、彼はADHDなのか? そうでないのか? 本人の口からははっきりとは語られていない。
子供の頃の町山はADHDだと公言したが、2012年の町山がADHDだとは公言されていない。カミングアウトしたのかどうか、はっきりしない。なんだかグレーというか、玉虫色というか曖昧な状態なのである。
町山がなにがしかのアピールをしようとしているのかもしれないし、あるいは町山本人が2012年の段階では治っていると信じているのかもしれない。あるいは信じたがっているのか。
この時の彼の心中を想像しようとすると、私はあまりにもつらい。町山が何か、あまりに深く傷ついているように思えるのだ。そして上杉隆への怒りがこみあげてしまう。ありえないよね、上杉。
そして、つらいが筆をさらに進めると、ADHDがなぜ発達障害と呼ばれるかといえば、病気と違って治らないからだ。そりゃごく軽度のものは治る。しかし深刻なものは治らない。だから障害なのだ。
そして町山智浩のアスペルガーについて調べようと、「アスペルガー」や「ADHD」で検索すると、衝撃的なものが表示されて凍りついた。
「大人のアスペルガー」「大人のADHD」「大人の発達障害」などと、ぞっとする内容が画面に表示されたのである。
ADHDって多くは大人になると治ることが多いんじゃなかったの?
なのになんで「大人の発達障害」なんてのが、社会問題になりつつあるの?
町山さん、もしかして発達障害の知識が足りないんじゃないの?
あるいは、発達障害の知識が古いんじゃないの?
町山智浩はADHDを「学校の授業が受けられない状態」という程度のごく軽いものと解釈していて、大人になった自分には関係ないと信じてるのでは?
……というわけで、これでも私は心を痛めたり、悩んだりしたあげくに、上杉隆が町山智浩にしたひどいことと同レベルのひどい発言を、町山が高須克弥先生にしてしまったので、さすがにマズいと思って筆をとったのだ。
すっごい安易に「町山を発達障害と断定するな!(彼はADHDではないのに!)」などと私に詰め寄らないで欲しいのである。
あなた方が考えているよりも事態ははるかに深刻だし、深刻すぎて簡単に結論が出せるはずもないのだ。
みんなで悩んで考えることしか、我々にはできない。
みなさんのお知恵を拝借したい次第なのである。
サイレントヒル(ゲーム動画)
サイレントヒルのゲーム動画を鑑賞。
ゲームをプレイする暇がないので、プレイ動画で物語展開のみをチェックする場合が多い。スーパーロボット大戦とか、ちょっとプレイするの無理だもんなあ。遊びたいんだけどさあ……。
ミストと違い霧の中で冒険できるため、ミストよりは面白いと感じてしまうのは陶然。ただ物語の説明のしかたが、ちょっと雑な感じがしたなあ。
サイレントヒルで何が起きたのかの解説が、要所で幻覚を見ることでおこなわれるのだ。でも、その幻覚を何が原因で見ているのか、何の説明もないのである。
自分の娘のシェリルを救助すべく冒険してたのだが、結末でそれがドッチラケになっており、なんだかなあ……である。続編に期待してね! ……ということなのだろうが、煮え切らず残尿感がのこる。
物語的には中途半端だよなあ。
スッキリした結末をみせつつ、続編を見たくなる伏線やヒキを用意しとくべきではなかったのか?
そういえば気になったのは、ゲーム序盤のザコキャラ。小熊のような爪の長いモンスターが襲ってくるのだが、これって怪物化させられた人間の子供なのでは?
欧米では子供の死体を画面にうつしてはいけないので(映画撮影用の模型でも)、テディベアが使われるそうなのだ。てことは、小熊のようなザコ敵が出てくるということは、コイツって子供のゾンビか何かなの?
まあゲームだから殺すしかないわけだが、なんだか気になった。