作家(小説家)はライターよりも格上なのか?(2)

 芥川賞作家よりも本が売れ、芥川賞作家よりも年収の高いライターはナンボでもいると私は書いた。小説家よりも読者に支持され、小説家よりも稼ぎもいいのだから、実は既に作家よりも格上のライターは多いと私は思う。

 ダメ作家よりも多くの読者に支持され、ダメ作家よりも読者を深く感動させ、ダメ作家よりも読者の人生を変えているライターは大量に存在するのである。

 もうひとつはあちゅうの発言で気になったのは、「他人を取材して書くのがライター。自分の中から出てくるものを書くのが作家」という不思議な理論である。確かにライターは自分の主観や意見を、なるべく原稿に反映すべきではないと私は考える。

 しかしなあ、現実問題として自分の主観や意見をブチこみすぎるライターは多い。

 例えば桝野幸一なんかがそうだ。

 音楽原稿にあまりに自分の主張をブチこみすぎるのはどうなのかと本人に質問したら、「原稿に自分を反映させないと書いててつまらない。また自分に原稿をオファーされる意味がない」と即答されて当時は愕然とした。

 他人を取材して書くふりをしながら、自分の中から出てくるものを書いているライターは、是非はともかくとして既に沢山いるのである。はあちゅうの「自分の中から出てくるものを書かないのがライター」という定義は、現状とは全く異なっている。

 良いか悪いかは別にして、既にライターは自分の中から出てくる主義主張や主観を大量に原稿にブチこんでいるのが現状なのだ。

 新聞記者だって例外ではない。

 本来は客観的に事実だけを報道する立場でありながら、自分の主観をブチこみすぎるあまり大嘘を報道してしまうのは普通だ。フェイクニュースとして社会問題にすらなっている。

 はあちゅうの現状認識はそもそもおかしく、ライターや記者が自分の中から出てくるものを原稿にブチこみすぎてしまっているのが現状だ。むしろそれが問題視されるほどなのだ。

 はあちゅうの原稿は読んだことがないが、彼女はよっぽど自分を出さないで原稿を書いているのだろうか? 自己主張が激しそうなので、そんなタイプにも見えないが……。あるいはウザいくらいに自分をブチこんでいるくせに、それでもまだ飽き足らない貪欲な性格なのだろうか?

 はあちゅうはもうひとつ勘違いをしている。

 自分の主張や意見や主観を原稿に書かなくても、それでも自分を原稿に投入することは可能なのだ。

 吉田豪を例にあげよう。

 彼はインタビュー原稿では自分の主張は可能な限り書かないが、それでも質問することで取材対象を誘導するし、また取材相手を厳選することにより、強烈な自己主張をしているのである。

 吉田豪の本を読めば、「コクのある生き方をする男はカッコいい」「アイドルは苦悩する生物で人間らしい」といった主張が強烈に読者に伝わってくるのだ。そんなことは文章のどこにも、はっきりと書いてないにもかかわらず。

 はあちゅうが自分の原稿に自分が反映されていないと感じて不満というならば、そもそも作家としてはあちゅうがダメなのではなく、そもそもライターとしてはあちゅうがダメなのではないかと問いたくなるわけだ。

 自分のメッセージを直接的に原稿にブチこまなくても、強烈に自己主張するライターは沢山いるのである。はあちゅうがそれではないことを、まず恥じるべきではないか。

 はあちゅうはライターという仕事について、勘違いをしているのである。

 そしてまた彼女は小説家という仕事についても、ライターにありがちな勘違いをしていると感じた。

 (次回に続きます)