エロ本やエロ文化の地位低下について

 エロ本の地位低下について。

 90年代末期まで?だと、文化人が意図的にエロアピールしてた面があったのだ。「自分は自由でやんちゃ、カッコいいんだぜ?」的な。当時の私は実際にそう思っていた。元SMの直木賞作家とか、ウリになってたしね。受勲までした大物作家は、ホモ経験を語ってたし。

 昭和ノリの大物芸能人が、エロやヤクザを語るのもそんな文脈は本人や周囲の空気にもあったと思う。大物作家が裏本制作の現場を取材するのも、皆が知らない時代の裏をレポートするエキサイティングなものだったのだ。「当時は」ね。確か三島由紀夫も、SMだか切腹ショーだかやってたような?

 だから結構な大物がSM雑誌でコラム書いてたりとかしてた。当時の印象はやっぱり自由でやんちゃでカッコよく、大物なのにSM雑誌で原稿書きとは寛容な……さらにカッコいい。ケツの穴がデカい。大物は違う。なんて印象だった。ただ、そんな空気が90年代後半から消え始めた。

 女子高生の援助交際ブームの最中あたりからだったと思う。当時の私は「さすがにこれ以上はエロを許したら大変なことになる」と世間が思い始めたなと感じた。流れが変わったのだ。中学生や小学生の女のコたちが、自ら進んで楽しそうに売春するのは時間の問題かもしれんと思ったし。

 元々からエロは逆風なものだったが、そこからの逆風はどんどんキツくなった。しまいにはコンビニに置くなとまで言われ始め、小島慶子に至っては嘘ついてまで置くなと言い出す。しかも彼女がイメージする成人誌(テープどめされてないもの)には、彼女がグラビアやったものまで含まれている。

 彼女周辺のサブカル文化人だって、その種の立ち読みできるエロ本で仕事してたりもしたのだ。本人の意思で遠ざかったり、あるいはエロ本が売れなくなってオファーできなくなったりしたとか、色んな事情で彼らがエロ媒体で仕事することも減った。さみしいことだが、時代だ。しかたない。

 しかし小島慶子が彼女と親しそうなミュージシャン・ライター・役者といった人たちが仕事してた媒体を、さも正論で「善いこと」としてコンビニに置くなと言い出したことに愕然としたのだ。彼女本人ができない立ち読みを、できると嘘ついてまで叩きはじめたのには呆れたしね。

 それをやっても許される空気みたいなものを、彼女がビンビン感じてるとも思うのだ。嘘ついてまで売るなと吠えていいのだ、たとえ親しい人々が仕事してた媒体でも。それは正論であり、善いことなのだ。という、なんちゅうか、洪水のような抵抗できない時代の流れや、反抗しようもない空気とゆうか。

 小島慶子個人やバズフィードを批判して(だって正当な批判なんだし)、黙らせることはできるかもしれない。しかし彼らの背後にある。洪水のような時代の流れとか、鉛のようにずっしり重い空気みたいなものが無くなるわけがない。それらに勝てる気がしないのである。無力感…。

 小島慶子責任能力のない女性という認識も、私の中であったりする。しかしそれを理由に放置するわけにもいかんと判断した。はっきり週プレが視野に入ってると忖度したので、普通にポストや現代もコンビニに置くなという認識だろうと私は解釈した。言質はとってないが。

 ただこの種の発言をするときに、コンビニから追い出す雑誌の定義を本人が明確にしないと、いろいろとまずい。女性ファッション誌は売れてるモデルが普通に下着姿になるし、尻の割れ目のちょい上部分を見せたりする。やってることはエロ本と同じだ。私もたまにエロ視点で買う。

 「エロ本をコンビニで売るなと。おっしゃる通りですね。では女性の下着姿や尻がのってる女性ファッションもコンビニから撤去していただくことに賛成していただけますね?反対なら根拠を述べてください。言質はとりますよ」と詰められたら、返答に窮して逃走するしかないわけで。