町山智浩を語る上で、彼の発達障害はもはや無視してはならないレベル

 興味深いブログを見つけたので、そこから引用する。上記のブログである。

 

>>もちろん、だからといって「彼ら」が否定されるべき純粋な悪かといえば、それも違う。リリー・フランキーが名演を見せる「彼ら」のうちの父親は、虐待されている子供を見てさらって来て育ててしまいます。これは、まず、善意からの行動といって良いでしょう。

 

 上記の引用を読んでいただきたい。町山智浩は心優しい男だ。虐待されている子供に優しくすることは、町山にとって「善」なのである。虐待されている子供を誘拐することは「悪」なのだが、虐待される子供に優しくすることよりも、優先順位は低い。

 

>>ただ、問題なのは、そういう素朴な善意に長期的な展望がともなわないことです。「彼ら」の行動は徹底して短絡的で、中長期的な計画というものが存在しないのです。

 

 上記の引用も重要だ。町山智浩ADHDという発達障害がある。その特徴としては、衝動的というものがある。長期的な展望は、優先順位が低いのだ。だから虐待している子供を助けるために、善意で誘拐するのは町山的には善なる行為なのである。

 だって間違いなく善意でやってることだから。

 虐待されてる子供を助けるのは悪……とは、誰も主張できない。

 だってそれ、善でしょ?

 悪ではないでしょ?

 ここまでは町山智浩的には正しいのだ。おそらく、我々にとってもそうでしょう。

 しかし、以下の反論が考えられる。

 いやいや、虐待される子供を助けるためとはいえ、それを誘拐したあげく、その子供のために万引きするのは悪ではないかもしれないけど、善ではないよね? 悪といってもさしつかえないよね?

 これに対して町山智浩が反論できるなら、して欲しい。これは「長期的な展望」にかかわることで、ADHD町山智浩にとって苦手な論点なのだ。

 町山はADHD。衝動的だ。そして衝動的なのは善なのである。彼は衝動的なことを善としている。ロックやパンクは初期衝動に忠実だからいいと、町山は言った。これは衝動性の肯定である。

 町山は他人から見えそうで見えないとこで、女性にフェラさせるのが究極の愛だともいっていた。確かにそうだ。一般常識を無視して、愛やセックスをするのは衝動的でADHDみたいで善なのである。これは同意する。衝動的なのは善だ。

 発展して、黒人と白人が愛しあうのは、一般常識として悪な時代もあった。そんな中で白人と黒人が愛しあってセックスするのも善だ。ホモとレズが悪とされる時代があっても、ホモレズが愛しあうのは善である。

 たとえ当時の感覚では衝動的に見えても。

 町山は映画のマッドマックスにハマるあまり、50歳をすぎてるのに髪型をモヒカンにした。サンダードームごっこに興じるあまり、腕を骨折。頭おかしいとしか思えない行為だが、衝動的なので町山的には善なのである。

 マッドマックスは全ての登場人物が衝動的なので、町山にとっては登場人物の全てが自分自身だ。自分の分身ばかりが登場する映画には、ハマるしかない。

 町山智浩はそうゆう人物である。

 ……で、そんな町山が万引き家族を見た場合、「善」を「衝動的」に行う家族は町山智浩本人の分身だから絶賛するしかないのだ。善のために子供を誘拐することは、賞賛されるべき行為。ADHDっぽくて、自分みたいだから町山的にはナイスなのだ。

 誘拐しちゃダメでしょ……という批判は、優先順位として低い。

 長期的な展望がないはダメでしょ……という批判も、優先順位として低い。

 一般常識が間違っている場合、衝動的なのは善だ。白人と黒人が愛し合うのが間違っているとか、衝動的に愛し合う白人と黒人は善だ。同性愛が間違っているという一般常識がある場合は、ホモレズが衝動的に愛し合うのは善である。

 しかし万引き家族という映画の中で、衝動的に子供を誘拐するのは善だろうか? 動機さえ正しければ誘拐は善なのか? 長期的な展望がないせいで、誘拐した子供に食べさせるものがなく、万引きするのは善なのか?

 この問いに町山智浩は誰もが納得する回答はできないだろう。

 衝動的なことは善とする町山の感覚は万能ではない。

 町山智浩を語る上でADHDという彼の個性は無視してはならないレベルに達しているし、その限界も見えてきたのではないか?