すすむ町山智弘離れ
深く静かに町山智弘離れが進んでるように見受けられる。
ある映画人? 映画系ライター? 無学で無教養な私は彼のことをよく知らないのだが、そんな人物のブログがタイムラインに流れてきて、それを読んでいたら町山智弘批判が書かれてあった。
要注目なのは町山かどうかはわからんが、大先生と称される映画評論家が文中に登場することなのである。
どうも映画祭に愛人つれてやってきて、しかも態度がデカかったらしくカチンときたようなのだ。もしかして愛人の態度もデカかったのかなあ……と想像してしまう。わりとよくある話じゃん。
映画祭の女性スタッフが反発して総スカンらしく(女性は愛人とか嫌うわな)、なんかもうポリコレがどうのといった高尚な話ではないのである。単なる助平オヤジの調子こいたふるまいが、周囲の怒りをかってるとゆうか。
愛人いるから反感かうようでは、ポリティカルコレクトネスではなく、エロティカルコレクトネスではないかと、思わずつまんないオヤジギャグをかましたくなるわけだ。
普段からポリティカルコレクトネスで優等生な発言ばかりして、周囲に遵守を求めてばかりいるお人である。なのに自分の下半身はフル勃起で、エロティカルコレクトネス全開って恥ずかしいでしょ。自分のチンコに関しては、急に劣等生になってしまうようでは話にならない。
きれいごとばっかり言ってるくせに、女にだらしない政治家と同レベルではないか。致命的だよな。クリティカルコレクトネスとでも表記するといいのかねえ?
だめだこりゃ。
あ、こーりゃこりゃ。
個人的には愛人つれまわすくらいセーフだと思う。女とやった後の冷静な賢者タイムの時って原稿が進むからだ。私が大学生の頃は普通に三又交際をやっていて、女の部屋を日替わりで泊まり歩きながら、ノートタイプのワードプロセッサーで新人賞に応募する用の原稿を書いていたものである。
英雄豪傑になったような、大物になったような、とにかく豪快な気分になってしまうわけだ。気分がいいのである。男とは、しょっぱい生物である。
そんな私だから、町山の愛人話は好感度アップのネタでしかない。それくらいでないと、いい原稿は書けないなどと考えてしまう。
とはいえ態度がデカいってのはマズいよな。
後輩や年下に囲まれていると、自分では普通にしてるつもりでも、ついなれなれしい態度になってしまうことは、私にはよくある。あんま他人を批判できるほどえらい人格でもないのである。
とはいえ、私のような小物にせよ、町山智弘のような大物にせよ、そんなことしてたら周囲の若者から反発くらってしまうのは当たり前ではないか。私は小物で実力もなかったから、順調に干されて今にいたる。業界から消えたから、今は悲しいことに誰からも嫌われることがないのだ。
しかし町山は実力もあるし大物だから、干したくても干せない。いつまでも映画業界に居すわってしまう。若い人たちから見れば、ケタクソ悪い「サブカル老害おじさん」になってしまうわけだ。
映画業界の人々が町山のふるまいに激怒し、愛人がらみの問題を暴露してんだろうなと、のろい私にもわかってきたわけだ。昔は、反町山の連中が、推理と検索で彼の愛人の存在に気づいたと思ってたんだけど、違うよな。身内の暴露だろ。
本来ならば映画関係者もやんちゃな性格なので、愛人くらいでグダグダ言うような連中ではあるまい。なのにそんな彼らがバラしまくるというのは、よっぽど腹にすえかねているのだろう。
ポリコレは確かに大事なものだ。
後輩の映画関係者がクロンボ表記などしてたら、苦言をていするのが先輩の優しさなのは間違いない。だけどそれはこっそり忠告すればいいだけの話で、ツイッターなどで大々的に批判したって反感をかうだけだ。
町山個人が批判するぶんには、単なる身内の兄弟喧嘩ですむ。
しかしツイッターでアピールなんてしたら、今は抗議団体などから運営に普通にクレームがきてしまう。運営サイドにしてみれば、町山が犬笛を吹いて、鉄砲玉が攻撃してくるように見えてしまう。アンタこうなるの、わかってやってるよな? と怒りがこみあげてくるのは察するにあまりある。
本来は身内で仲良くやってけるはずの、映画業界人や若者たちと対立して、何か得することあるのか首をかしげてしまうわけだ。
これから批判や暴露が次々に出てきそうな気配だが、なんだか暗然たる気持ちになってしまう。
なるべくカドを立てないように、うまく意見する方法を模索すべきではないかと案じる次第である。
* 追伸 *
妙なところからアクセスがあったので調べたら、某所に当ブログのリンクが貼られていた。カキコを読むと「だめだこりゃ、あ、こーりゃこりゃ」などと、当ブログの特徴的なフレーズがカキコしてあったりする。
まるで私がカキコしたように偽装されてるわけだが、私のやったことではないので誤解しないでいただきたい。あんま、関わりたくないのが本音なのだ。