作家(小説家)はライターよりも格上なのか?(3)
はあちゅうは小説家という職業も勘違いしている。
「自分の中から出てくるものを書くのが作家(小説家)」という定義を彼女はしたが、作家だって取材はやる。ダメなライターよりもはるかに熱心にやる人たちは多い。歴史小説や時代小説になると、資料集めで1千万はかかるとまで言われるほどだ。
とんでもない取材量が要求される小説というのは、存在するのだ。
あと小説・マンガ・映画などでよく指摘されることだが、「過去に自分が体験したものの中から、組み合わせて作られるのが登場人物と物語。完全なオリジナルはない」という現実もある。
はあちゅうが考えているような、「自分の中から出てくるもの」を書いている小説家は実はいないのではないだろうか? 私小説などはそれに該当するだろうが、しかし西村賢太の小説を読んでいても落語の技法が活きているのを確かに感じる。
自分の中から出たものを書いてはいるが、単に自分が経験したことを小説にしたわけではない。ヤマもあれば意味もオチもある。起承転結があって、物語があるのである。
主人公もあくまで創作されたものであって、作者本人ではないのである。そんな登場人物をこさえただけなのだ。
自分が経験したことや感情を書けば、まんま小説になるのではないか?
そうした方が、読者により自分を理解してもらえるのではないか?
承認欲求が満たされるのではないか?
そんな勘違いを、ついついライターはしてしまいがちだ(特に女性に顕著だと思う)。しかし小説というのは、単に自分を主人公にして自分の気持ちを描いて、読者に自分を認めてもらうものではないのである。
物語に起承転結をつけて、自分の経験を元にして、自分とはなるべく遠い登場人物を描くのが小説なのである。よく言われるではないか、「経験しないで小説を書くのがダメなら、推理小説のために殺人を経験しなければならなくなる」と。
自分の経験を大切にしつつも、なるべくそれから遠いものを想像したり、あるいはそれを読者に想像させるのが小説家の仕事なのである。
で、その想像力は残念ながらライターは作家よりもはるかに劣る。
自分よりも遠い登場人物や、物語づくりの能力が小説家よりも決定的に劣っている。ヤマや意味やオチをつけられないのが現実なのだ。
だからライターが小説っぽいものを書く時があるが、なんとなく主人公が自分らしき人物で、しかも短編の寄せ集めだったりするのだ。
小説家としてはっきり無能なんだが、、承認欲求をこじらせてる女性ライターにとって、逆にそんな作品を書くのは魅力的に思えてしまう。
だって自分を読者に認めてもらった気がするから。
作者本人と似てはいるが、しかし自分とはなるべく違う主人公を描くのが小説家の才能だ。だから難しいし、皆がそれに苦しみながら挑むのである。
だが勘違いしたライターが小説を書く場合、自分に近ければ近いほど、書いてる自分は心地いい。承認欲求が満たされてしまう。
どうも、はあちゅうがイメージする「自分の中から出るものを書くのが作家」というのは、そういったものではなかろうか。
だけど、それはでっかい勘違いなのである。
ライターが小説っぽいものを書くが、主人公が限りなく作者本人に近いし、物語づくりのスキルがないので盛り上がりに欠けるものになりがちだ。そもそも物語じゃなかったりすることも多い。
長編を書きこなす文章の体力もないので、短編の寄せ集めで本を出してしまう。それぞれにオチはついているが、起承転結のある結末と単なるオチは別物だ。ライターだから妙な小説家よりは文章は上手く、退屈しないで最後まで読み通すことはできるが……。
ライターが書いた小説らしきもの、あるいはエロ職業やってた女性が小説らしきものを書いた場合、そんなものになりがちである。サブカル系の人々が小説を書いた場合、ほとんど全てがそうなってしまう。
名前を出したくないが、死んだあの女性とか、あの女性とか。生きている現役エロ女性だと、あの人とか。はっきり感じが悪いので名前を出してしまうけど、桝野幸一の離婚小説などモロにそうだしな。
そんな短編小説らしきものに、オチだけつけて一冊にまとめて「作家でござい」「自分の中から出てきたものを書きました」「自分が承認されました」という状態にはあちゅうがなるのが目に浮かぶわけだが、それはちょっと違うよな。
短編にオチだけつけて寄せ集めで一冊こさえて終了。
そんな安易な姿勢をライターはやりがちだ。それから脱却するのがライターが小説を書く時のキモではないかと思う。
残念ながら町山智浩ですら、同じ落とし穴にモロにハマってしまった。
進撃の巨人の映画を観て愕然としたのだが、個々の登場人物の短編を寄せ集めたものでしかないシナリオだったのである。私が前述したような、「いかにもライターがやりそうな初歩的ミスと勘違い」をそのまんまやってしまっているのだ。
そりゃエピソードごとに結末というかオチはついてはいるが、そもそも原作に結末やオチがあって、それをなぞってるだけだしなあ。自分で考えたとは言いずらいべよ。
あれだけ映画を観ていて、全ての登場人物と物語構造を記憶しているのに、実際に自分で書くとなると物語スキルと体力のないライターが物語を書くのはキツいものなのだ。
むろんいろんな悪条件が重なってそうなったのは忖度するが(よく出るなこの言葉)、とはいえやはりライター的なミスだと思う。
町山智浩ですらそのていたらくなのだから、ましてやはあちゅうとなるとね。
くどいようだがオチだけつけた短い文章を寄せ集め、「短編集を出しました。小説家でござる」と1人で感動したりご満悦になったりするのは勘弁してもらいたい。
なるべく自分よりは遠い主人公を動かしてしっかりと起承転結をつけ、ガツンと読みごたえのある長編を書き下ろしてから、作家を名乗って欲しいと思う。
(この項、しつこく続きます)
最近の私
ブログ日記を書いててぶっちぎりのアクセスがあったのは、うしじまいい肉。1日3千アクセスを超え、私の中では最高アクセスだった。次が性の悦びおじさんで、1日300アクセス。最低だったのが桝野幸一で1日20アクセス。
態度が偉そうで最高に感じ悪いくせして、全く数字を持ってない桝野幸一、勘弁して欲しい。性の悦びおじさんの1/10しかアクセスがないのかよ貴様は。
私は肩書的にはライターを名乗ってはいるが、なかなか厳しい現状でもある。ブログを書いたところで、それが仕事につながるかといえば、そうではない。とはいえ、頭に思い浮かんだことはブログにでも書かないと落ち着かない。
宿便を排泄しないと、スッキリしない感じに似ている。
貴様は我々に宿便を読ませているのかと怒られそうだが、実際にそうだしなあ(笑)。ブログという形で書き捨てておくと、空っぽになった頭の中に別のアイディアがわいてくる。それをひたすらにくりかえすのが、書き手のコツだ。
ただ可能な範囲内で面白いブログにしようとしたり、読みやすくしようと努力してるので、お許しいただければ幸いである。
自分で言うのもナンだが、私は売れてるライターではない。周囲もそんな調子だ。仕事をふってくれてた編集者も、リストラされるなどしてクライアントではなくなったりする。
追い込まれた状況でブログを始めることにした。
いや、ブログなんかやってる場合じゃないとは、私も考えたりするのだ。しかし仕事がないライター友達で、ブログすら書いてない人物も普通にいたりするので、それもどうかなあと思ったりもするわけだ。
本人にはブログをすすめているのに、書こうともしない。
なんで書かないのか尋ねてみると、どうもノーギャラなのが嫌ならしい。気持ちはわかる。ライターを自称してるのに仕事がなく、ノーギャラでブログを書くのはみじめである。格が下がったような気もするし。忙しいライターであればブログを書く暇もないはずだ。
とはいえ、売れてないライターなのに、ブログすら書かないというのは、それはそれでマズいと思ったりもするわけだ。
原稿依頼が無いから文章を書かないというのでは、世の中に何も発信していないことになる。何の影響も与えないライターってマズいでしょ。このブログが何か影響を与えてるかといえば、そんなことはない。
しかし、まあ、何がしかを発信してはいるのである。
書きたいことがあるからライターやってるわけで、金にならなくても書きたいものは書きたい。そうしてないとイライラしたり、鬱になったりするので、そうなるくらいならブログに書いてしまった方がいい。
それに書き捨てブログとはいえ、キーボードを叩いていると、頭の中が整理されるし、自分の文章のリズムを思い出したりもする。調子出てくるわけだよね。
プロ野球選手のバットの素振りだって、ノーギャラでやってるわけじゃん。
それと同じだよと言うと、カッコつけすぎだろうか?
売れてないのにブログを書かない知人を見てると、もしかしてコイツは書きたいこともないのにライターになってしまった男なのかなあ……と思ったりもするわけだ。
書きたい欲がそもそも薄い人物に仕事が来ないのは、むしろ当然なのかもしれん。もしかしたら彼にはライター適正そのものが、無かったのかも。
売れないライターやクリエイターは、ブログに愚痴や不平不満が増えるそうな。売れてる人のブログにはそんなものは無いらしい。
指摘の通りだとは思うが、悩んだりネガティブだったりするのが人間本来の姿のはず、それらが日記やブログの中にまるで出てこないというのは嘘ではないか? 真実ではないのではないか? そんなもん書いてどうする?
それは広告なだけで、コンテンツではない。
いや、仕事欲しくて書いてるのだから、このブログは広告だ。
とはいえなあ、ネガティブなものの全くない、嘘くさいブログにはしたくねえんだよなあ。誰も読んでないノーギャラ原稿であればこそ、自分の本当の気持ちを書き残しておきたくなったりもするし。
作家(小説家)はライターよりも格上なのか?(2)
芥川賞作家よりも本が売れ、芥川賞作家よりも年収の高いライターはナンボでもいると私は書いた。小説家よりも読者に支持され、小説家よりも稼ぎもいいのだから、実は既に作家よりも格上のライターは多いと私は思う。
ダメ作家よりも多くの読者に支持され、ダメ作家よりも読者を深く感動させ、ダメ作家よりも読者の人生を変えているライターは大量に存在するのである。
もうひとつはあちゅうの発言で気になったのは、「他人を取材して書くのがライター。自分の中から出てくるものを書くのが作家」という不思議な理論である。確かにライターは自分の主観や意見を、なるべく原稿に反映すべきではないと私は考える。
しかしなあ、現実問題として自分の主観や意見をブチこみすぎるライターは多い。
例えば桝野幸一なんかがそうだ。
音楽原稿にあまりに自分の主張をブチこみすぎるのはどうなのかと本人に質問したら、「原稿に自分を反映させないと書いててつまらない。また自分に原稿をオファーされる意味がない」と即答されて当時は愕然とした。
他人を取材して書くふりをしながら、自分の中から出てくるものを書いているライターは、是非はともかくとして既に沢山いるのである。はあちゅうの「自分の中から出てくるものを書かないのがライター」という定義は、現状とは全く異なっている。
良いか悪いかは別にして、既にライターは自分の中から出てくる主義主張や主観を大量に原稿にブチこんでいるのが現状なのだ。
新聞記者だって例外ではない。
本来は客観的に事実だけを報道する立場でありながら、自分の主観をブチこみすぎるあまり大嘘を報道してしまうのは普通だ。フェイクニュースとして社会問題にすらなっている。
はあちゅうの現状認識はそもそもおかしく、ライターや記者が自分の中から出てくるものを原稿にブチこみすぎてしまっているのが現状だ。むしろそれが問題視されるほどなのだ。
はあちゅうの原稿は読んだことがないが、彼女はよっぽど自分を出さないで原稿を書いているのだろうか? 自己主張が激しそうなので、そんなタイプにも見えないが……。あるいはウザいくらいに自分をブチこんでいるくせに、それでもまだ飽き足らない貪欲な性格なのだろうか?
はあちゅうはもうひとつ勘違いをしている。
自分の主張や意見や主観を原稿に書かなくても、それでも自分を原稿に投入することは可能なのだ。
吉田豪を例にあげよう。
彼はインタビュー原稿では自分の主張は可能な限り書かないが、それでも質問することで取材対象を誘導するし、また取材相手を厳選することにより、強烈な自己主張をしているのである。
吉田豪の本を読めば、「コクのある生き方をする男はカッコいい」「アイドルは苦悩する生物で人間らしい」といった主張が強烈に読者に伝わってくるのだ。そんなことは文章のどこにも、はっきりと書いてないにもかかわらず。
はあちゅうが自分の原稿に自分が反映されていないと感じて不満というならば、そもそも作家としてはあちゅうがダメなのではなく、そもそもライターとしてはあちゅうがダメなのではないかと問いたくなるわけだ。
自分のメッセージを直接的に原稿にブチこまなくても、強烈に自己主張するライターは沢山いるのである。はあちゅうがそれではないことを、まず恥じるべきではないか。
はあちゅうはライターという仕事について、勘違いをしているのである。
そしてまた彼女は小説家という仕事についても、ライターにありがちな勘違いをしていると感じた。
(次回に続きます)
山田朱莉が夢みるアドレセンスを卒業(1)
山田朱莉がアイドルグループの夢みるアドレセンスを卒業した。SNSの裏アカをつくり、彼氏とイチャついたり、ファンを侮辱したと解釈できる投稿をしていたからだ。お相手はサグワとかいう、ユーチューバー。
私が卒業の経緯を妄想してみた。
山田の卒業コメントの文章に漂う、妙にサバサバした雰囲気。脱退なんだが卒業ということにしておきたい……という事務所のあいまいな態度。
その2点を根拠に忖度(出た!流行語大賞!)しよう。
事務所としては山田を夢アドに復帰させたかった。そのためには処罰と謝罪をさせた上で、サグワと別れるのが最低条件。事務所はそれを山田に提示した。
山田は処罰と謝罪はのんだものの、サグワとの別れは拒否。男との交際は続けるから夢アドは辞めるが、芸能活動は続けるつもり。アイドルではなく、モデルとしてなら男がいてもセーフなはず。だって同じ事務所のモデルはそうしてるし……。
なんて彼女は考えているのではないだろうか。
夢アドよりも男をとって、しかし芸能活動は続けたいという山田朱莉のナメた態度に、事務所は苦りつつもクビにすべきか、あるいは稼ぎ頭になってもらうべく育ててゆくか、関係者と調整しながら悩んでいる……。
……てな感じではないかと私は妄想した。
アイドルは仕事と男の二択を迫られた場合、あっさりと芸能活動を捨ててしまいがちだ。山口百恵もそうだし、スピードの島袋寛子もそうだった。例外的に峯岸みなみは、男よりも仕事をとった。自分の頭を坊主刈りにしてまで。
山田朱莉がアイドルよりも男をとったとしても、不思議なことではない。
そもそも夢アドへのモチベーションも下がってたから、裏アカを始めたのかもしれないしなあ。心のどこかで「バレたら辞めてもいいや」な気分だったのかも。
地下アイドルを5年も続ければ、自分の天井が見えてしまう。仕事で努力してきたが、限界を悟った女性が男に走るのは、わりとよくあることでもあるし。アイドルだけではなく、一般女性もそうだろう。
で、気になったのは山田の彼氏であるサグワのほう。
サグワの動画を見たが、何もない19歳の男に見えた。
あまり上等な男ではない。
アイドルとつきあってるのだから、裏アカ始めた彼女をいさめる立場のはず。恋人が夢を追ってるのだから、応援するのが彼氏の役目だ。
なのにいかにもバレそうで、またバレたら炎上しそうな裏アカを一緒になって騒ぐというのはダメだろ。
山田朱莉がアイドルを続けても、悪い虫が寄ってくるだけ。サグワよりも年収がはるかに高いイケメン男が、大勢いるのが芸能界である。だったら裏アカやらせてバレて炎上しても、サグワが彼女を独占できるからそれでOK。しかも自分の宣伝にもなるから、二重に美味しい。
そんな空気を読んでしまうのは、私だけだろうか?
女のコの夢を応援したところで、夢がかなえばかなうほど自分から離れていくのはよくあること。アイドルとして売れれば売れるほど、サグワよりも良質な男と出会うことになってしまう。
だったらとっとと、自分のモノにしてしまったほうがいい。
アイドルとして売れるのは幸せなことだ。だが、アイドルを辞めて恋に生きるのも、幸せなことでもある。だったらオレが幸せにしてやろう……なんて、19歳の若い男が考えても悪いことじゃないやな。
別に間違ってはいないし。
(この項、続きます)
2017年の流行語大賞は忖度なのか?
忖度と書いて「そんたく」と読む。
ヤフー辞書によると「他人の心をおしはかること」という意味である。ちなみに検索ランキングは1位であった。2位はインフルエンサー(乃木坂46のCDタイトルからきてるのだろうが……)。2017年4月の日本語状況は、そんな感じみたいである。
忖度がここまで注目されるまで、私の中での流行語大賞は「強要」であった。一般女性へのAV出演の強要だとか、アイドルへの枕営業の強要だとか、そんな記事をネットでよく見たからである。
トドメを刺すかのごとく、安倍総理の妻である安倍明恵が森友学園の名誉校長への就任を断れなかったと言い出して、総理夫人ですら迷惑なものを強要されて断れないのかと愕然としたわけである。
一億、総・強要化社会。
日本女性は常に男性から何かを強要され、しかも彼女たちは断れない。
日本の社会体制に問題があるのか、あるいは強要してしまう男性が悪いのか、断われない女性の意志の弱さに責任があるのか、原因を1つにしぼりきれない。
もしかしたら、それらが複合した結果なのかもしれない。
根本的な解決は、もう無理なのだろう。
……で、忖度と強要はワンセットで、現在の日本の状況を反映しているのではないかと感じるのだ。
女性に何かを強要する男性たちがいて、彼らは女性に「空気は読めるよね?」と迫る。断わりきれない女性は、それに対して「ウチらの気持ちを忖度して!」と悲鳴を上げてるような気がしてしまうのだ。
かなり昔の流行語に「KY」というのがあった。
空気(KUUKI)が読め(YOME)ない人物を、省略してKYと呼んでたわけだが、その頃から日本人には空気を読ませて何かを強要しようとする、悪い癖があったわけである。そしてそれが何年たっても、治りそうもない。
KYから忖度に言葉が変わっただけなのである。
ひょっとしたら10年後にまた、何かに別の言葉に変わって、KY忖度な問題が日本をにぎわすのだろう。
ダメだこりゃ。
あ、こーりゃ、こりゃ。
作家(小説家)はライターよりも格上なのか?(1)
はあちゅうという女性が「私はライターではなく作家」と発言。炎上した。一般的には作家といえば小説家のことで、ライターではない。ライターのはあちゅうが、作家を名乗るのは肩書詐称だ。日本語の用い方として、間違っている。
はあちゅうは経歴詐称して炎上したわけだが、同時に小説を書いてもいないのに「ライターではなく作家」と主張したことによって、小説家のほうがライターよりも格上の存在であるとみなしている様子もうかがえ、さらに炎上に拍車をかけた。
ま、小説家の方が作家よりも格上ってゆう無言の空気はあるにはあるわな。
とはいえ、実際に作家(小説家)のほうがライターよりは格上かというと、そうとも言えない。売れない芥川賞作家の場合、単行本の初版部数は3千部で増刷なしということは普通にある。
3千冊以下しか自分の小説を売れない人物でも、一応は作家なのだ。それも芥川賞作家なのである。
はあちゅうという女性ライターが実売どれくらいのライターなのか、私は知らない。知らないが彼女はネットで有名なので、売れてそうなライターとボンヤリと考えている。はあちゅうの単行本は3千部以上は売れてそうだ。
てことは、売れない芥川賞作家よりも、はあちゅうのほうが既に格上なのでは?
作家であろうが、ライターだろうが、売れてるか否かが一番だいじ。数字を持ってるほうが勝者だ。そう考えてくと、既にはあちゅうの方が勝ってるのだから、格上なのだと私は考えてしまう。
他の売れてそうなライターで、荻上チキや吉田豪なんてのがいたりする。実売がどれくらいは知らないが、ボンヤリと初版7千部からスタートして、3万部以下くらいが実売ではないかと勝手に妄想してしまうわけだ。
むろん、単行本によっては5万部前後に達するものもありそうな気がするが、平均スコアとしては1万部以上の3万部以下くらいではないかなあ。
3千部どまりの芥川賞作家と比較して10倍の単行本売上があるとしたら、そりゃ作家よりも格上のライターって沢山いそうだ。実売部数や読者の数を比較したら、作家よりも格上のライターはナンボでもいる。
年収を比較するとどうか?
作家にせよライターにせよ、年収500万円を超えるのはなかなか難しい。もちろん年収500万を超えてる書き手は大勢いるが、年収1千万を突破している作家やライターはほとんどいない。
でも朝日新聞の新聞記者(正社員)などは、普通に年収1千万は40歳くらいで普通に超えてそうである。てことは年収で比較した場合は、作家やライターよりも新聞記者のほうが2倍近くは格上ではないかと私は考えてしまうわけだ。
単行本の売れ行きや年収で、職業の格を決めてしまうのは単純すぎる。
だけど私がここで強調したいのは、しょっぱい作家よりは、よっぽど良質な単行本を出しているライターは沢山いるし、多くの読者に支持されてるライターも山ほどいるということなのだ。
格というものは、肩書で決めるものではない。
実績で決めるものだ。
そんな風に私は考えてしまう。売れない作家よりは、売れてるライターの方がえらい。そして売れてないライターよりも、売れてる作家の方がえらい。
つい私はそう考えてしまう。
(次回に続く)
メモ
「初見で自分の事に全く興味が無く、少しでも気にくわなければ作品ごとページを飛ばしてしまう読者」に向けて描いていかなくてはなりません。投稿作でも確かに心配だとは思いますが、「編集者に全部読んでもらえているのか?」と心配するのでは無く 続
— 少年ジャンプ漫画賞 (@jump_mangasho) 2017年2月14日
初見で移り気な読者が1ページ目を見ただけで興味を持たせるにはどうすればいいか?、さらに次のページをめくりたくなる工夫は無いか?という事を常に考えていて欲しいです。
— 少年ジャンプ漫画賞 (@jump_mangasho) 2017年2月14日
話を考え付いたからといって何となく描き始めるのではなく、「企み」を持って描けば作品は必ず良くなるはずです。<中路>
昔エッセイで読んだ事があるのですが小説家の伊坂幸太郎さんは「ハッピーエンドはバリエーションが少ない。なのでバットエンドをいかに”読後感良く”書くかを研究している」という旨を仰ってました。
— 少年ジャンプ漫画賞 (@jump_mangasho) 2017年2月15日
エンディングの書き方に限らず、創作というものは色々深いです。各々答えを探して戴ければ。 https://t.co/PHrgAaeApA
具体例を書きますと「ヒロインが病気で最期に死んじゃう」がバットエンド。
— 少年ジャンプ漫画賞 (@jump_mangasho) 2017年2月15日
「ヒロインの病気が治る」がハッピーエンド。
「ヒロインは死ぬが、絶縁していた兄弟と病気になったお陰で最期に和解できた」等は”読後感が良い”バットエンドです。
私は作家ではないので、例が陳腐過ぎますが。<小池>
全く遅くないですし何度でも持ち込んでください。やりたいと思った事に遅い早いを気にする必要はありません。また、これに限らず新人さんは周りと比べて自分の立ち位置がどうかとか気にしないでください。周りではなくまず目の前の担当、そしてその先にいる読者があなたの相手です。 https://t.co/5MoGwAnuy7
— 少年ジャンプ漫画賞 (@jump_mangasho) 2017年2月20日
読者に「何かを思わせられるセリフ」が書ければ、それは良いセリフです。
— 少年ジャンプ漫画賞 (@jump_mangasho) 2017年2月21日
また、自分で考えるカッコいいセリフ・熱いセリフ・気障なセリフ等は、やり過ぎかな?くさ過ぎるかな?と思うぐらいが丁度いいです。<中路> https://t.co/6cm7aRpuJe
以前あった似た質問に対しての回答です→アイデアとは自分の中にある記憶が再構成されて出てくるものです。何を描いても何かに似ている事から逃れることはできません。何かに似ていることに悩むより、似ている何かよりもっと面白くできないか?と考えた方が前向きな解決策です。<中路> https://t.co/yFkGcEEjwu
— 少年ジャンプ漫画賞 (@jump_mangasho) 2017年3月2日
面白さが伝わると思えば描き込んでください。
— 少年ジャンプ漫画賞 (@jump_mangasho) 2017年3月7日
キャラのやりとりや感情の描写が中心であれば表情・仕草・動作等、キャラの演技に関わる事が読み手に伝わるようしっかり描きましょう。
場所が例えば特徴の無い学校や町の中などであれば、そこまでがんばって描き込む必要はないと思います。〈中路〉
ちなみに第一弾の冨樫先生×岸本先生(昨年のジャンプGIGA掲載)も、ハンターとナルトの逸話が飛び交う大白熱の対談でした。キャラ作り、画面構成、連載中の構成術など踏み込んだ質問大歓迎です! https://t.co/3ijnrIZQlO
— 『暗殺教室』公式 (@ansatsu_k) 2017年3月10日
あと追加ですが、ジャンプを読んでいただければわかると思いますが各漫画のコマ割りは結構シンプルです。シンプルなコマ割りで読者が読みやすいリズムを作り、場面に応じて1P1コマや見開き、縦長のぶちぬきコマなど基本のリズムとは違うコマ割りを入れて読者の印象に残るよう工夫をしています。
— 少年ジャンプ漫画賞 (@jump_mangasho) 2017年3月13日
なので基本はなんの変哲もないシンプルなコマ割りでいいんです。奇抜なコマ割りができたからと言って読みにくかったら何にもなりません(※作家性にまで昇華できれば別ですが)。まとめると「コマ割りは基本読者に読みやすく、見せたい場面で工夫をする」です。〈中路〉
— 少年ジャンプ漫画賞 (@jump_mangasho) 2017年3月13日
許斐先生と藤巻先生の対談企画に同席してきました。創作志望者に物凄く実践的かつやる気を与える、かなり熱い対談になりました。面白い記事になると思います。詳細は続報にて! https://t.co/KOSmyCKBpN
— 少年ジャンプ漫画賞 (@jump_mangasho) 2017年3月16日
ストーリーの作り方を学ぶのは別に大学に行かなくともできます。また、創作技術は学んでから描くのでは無く、描いてみてから自分に足りないと思ったものを学んでいけば良いと思います。〈中路〉 https://t.co/K0laCL5o0G
— 少年ジャンプ漫画賞 (@jump_mangasho) 2017年3月23日
評価は現在の実力+将来性です。
— 少年ジャンプ漫画賞 (@jump_mangasho) 2017年3月30日
実力は今一歩でも将来性を加味した上で受賞する事はよくあります。将来性も単純にイコール年齢ではありません。
ちなみに20代後半ならプロレベルの実力を要求、ということもありません。当然10代よりは実力を見せつけて欲しいですが。 https://t.co/91BBVJnwvU
例えば今実力が同じ新人が2人いたとします。
— 少年ジャンプ漫画賞 (@jump_mangasho) 2017年3月30日
Aさんは「すぐに伸ばせる長所持ち」、Bさんは「時間をかけないと伸びない長所持ち」だとしたら、Aさんの方が将来性が高いと言えます。
ただBさんも時間がまだまだある若い人なら十分に将来性があると言えます。
年齢が関係するとしたらそこです。
練り込むのは良い事です。
— 少年ジャンプ漫画賞 (@jump_mangasho) 2017年4月1日
ただ良くないとすれば「永久に納得出来ないので作品がいつまでたっても完成しない」場合です。
そういう悪い意味での完璧主義を自覚している人は「多少心残りがあっても、とにかく完成させる」方針でやった方が結果的に成長します。 https://t.co/Qwa32DirFo